実践こそ大切であると思うのである。Walkingも、宗教学も研究してなんぼというようなものではないだろうから。ま、他人のことは言えねぇ、言えねぇ。
「一遍聖絵」という本があって、県立図書館から借りたことがあった。気に入ってしまって、とうとう自分用に買った。むろん中古本である。例のAmazonからである。年金生活者にはありがたい会社である。しかも、ボキの机の上から買うことができる。インターネットで。
今日の記事は、その一遍聖絵の中にある一遍さんとその妻(妾とも書いてあるけど)超一、長女の超二、お供をしている念仏房その他のことである。
ボキは、この絵を見ていると実に落ち着く。
決して学問僧であろうとはしなかった一遍さんの実践人としての姿が出ているからである。
捨てて、捨てて、捨てまくった方である。
当然、万巻の経文も、そのメモも持参しておられない。
しかも、妻と娘と一緒である。
ここらあたりが、西行とは違う。西行は、出家するにあたり、自分の子どもを蹴飛ばしてまで家を出て行った。大男で、力に優れ、武芸も相当なものであったという。
日本最大・最高の歌人でもあった。否、和歌のみを残そうとした僧であり、事実そのとおりになった一流の知識人である。だからこそ、ボキのような一介の田舎人にはついていけない部分がある。その激しさにである。あまりも激しいからである。そんなに和歌の世界に執着しているのであったら、なんのための出家であったのだろうかと疑問におもうからである。
それでも西行は評価が高い。
知の人間としてである。
一遍さんは、違っている。知の人間ではない。優れた僧としての知名度や、実績というものでもない。
なにしろすべてを捨てて、捨てて、捨てまくった人である。
この絵は、その一遍さんが遊行の旅に出ようとしているその日である。ものの本によると、文永11年(1274)の旧暦2月8日であったらしい。
さらに一遍さんは学者ではない。生まれながらの詩人である。であるからして、伝記とか研究書から入らない方がいい。あくまで詩としての一遍さんの言葉から入って行った方がいい。
まとまった経典研究の類いのものはないから、かえって気が楽である。眉間に皺を寄せて難しい経典研究を読ませられたら、こっちだっていやけがさす。
そもそもボキは信仰というものを持っていないし、いろんな宗派を渡り歩いているアホだからである。
しかも仏教だけではなかった。これまでの宗教についての放浪は。キリスト教ですら専門の方について教えをいただいていたし。
だからではないが、実践こそ大切であると思うのである。宗教学は研究してなんぼというようなものではないだろうから。
ま、他人のことは言えねぇ、言えねぇ。
わははっははっはははっははっはは。
*
けふも孫と一緒に、出羽の海部屋の相撲合宿を見に行った。
孫が好きになったらしいから。相撲を。
孫は二人とも男児である。
これまた相撲も実践一つである。
研究してどうするこうするというようなもんでもないだろうから。
さ、孫が昼寝している。
これからボキは実践人としてgymに行ってくる。歩いてくる。
歩かないと死んじまうからである。
Bye-bye!