と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

別れたアトで 喪ったアトで 庭で咲いていた一輪の花に亡母の姿をみたような気がした

2019年07月19日 08時18分15秒 | とーま君の流儀2019
母を喪ったのは、64歳の時であった。ボキの年齢ではない。母が亡くなった時の母の年齢である。ボキは、まだ若かった。34歳であった。そして、母が亡くなった年齢をとっくの昔に過ぎてしまった。

生きていたら(あり得ない話だが)、今のボキを見てなんというのだろう。まだまだ小僧っ子だと言うのだろうか。たぶん言うだろうなぁ。愚か者めと叱るかもしれない。まさに愚か者そのものであるからだ。

山形の女子師範学校を出て、純粋な教師であった。身長147センチしかなくて小さかったけど、保健体育と音楽と国語のセンセでもあった。むろん師範学校卒であるから、小学校のセンセが本業だった。バスケットの選手であった。ちびダンプと言われて恐れられたらしい。

母の写真は今でも持っている。師範学校を出てから、初任の学校で写真を撮ったらしいのがあるのだ。自分で言ったら笑われるが、かなりの美人教師であった。言葉が、田舎育ちにしては正確であった。ズーズー弁もむろん使えたが、国語教師らしく標準語も使いこなせた。この母の影響で知らず知らず教師稼業に憧れたんだろうと思っている。むろん、ボキごときの能力では教師稼業につくことは不可能だとは思っていた。

しかし、母が夏休みになると連れていってくれた山形の寒村にある小学校の分校に行くのがタノシミであった。母の担任の生徒たちが、学校に遊びにくるのだ。野球をやりにである。後に米沢の高校で同級生になったY君とも野球をやった。優秀な生徒であった。彼は、ボキの高校から仙台にある一流国立大学に進学していってエリート人生を送っていった。

ボキはダメだった。劣等生。しかもチョーがつくほど劣等生であった。今でもそうだけど。

山形の山深い小学校の分校でやった野球のことが忘れられない。野球といっても、軟式のボールで狭いグランドである。デカイのを打ったら道の脇を流れている川をとおりこして、学校の反対側にある山の中腹に突き刺さってしまう。それでもタノシイ体験だった。

これが原体験になっているのかもしれない。そういう人生を送ってみたかった。そして、定年まで続けることができた。なんという僥倖であっただろうかと思う。感謝である。

母とは永遠に別れてしまった。亡くなってしまったからである。しかし、ボキは無駄に生きている。愚か者の人生後半戦をやっている。情けないなぁと母は慨嘆しているかもしれない。

それでも、苦学していたボキがホントにたまに帰省したときに台所で泣いていた光景を忘れることができない。。苦学して東京に出奔していったバカ息子のことが、心配だったからだ。

アホな息子は、ジジイになってもアホである。

今朝、庭に咲いていた一輪の花にも、母親がいたんだろうなぁとさっき思った。リビングで、ぼ~~~~~~~~っと庭を見ていたからである。

今日も夜には塾に行く。こんな生活を送っているのも、母からの遺言のような気がしている。センター試験で古典を受ける高校生のために、参考書をあげるつもりだからだ。駿台予備校の本である。ちょっとしたことが、役立てば良いと思っているからだ。そんな程度しかできないのだけど。



感謝である。



BYE-BYE


コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/