と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

教師の教師を持とう

2019年07月24日 17時22分58秒 | 教師の流儀
教師になって、自分だけ舞い上がるヒトがいる。必ずいる。大学を出てすぐに**先生と呼ばれるからである。世間のことを知らない。まったく同感である。自分の専門をかたくなに守り、いかに自分の専門としている学問はすばらしいかと絶叫する。

それはそれで良し。そういう情熱は尊い。受験勉強に邁進していくのも、教育の一端であるからだ。

しかし、教師にも哀愁が訪れてくるときがある。自分のやっていること、方向性というモノがこれでいいのだろうかとか、こんなんで子どもたちに果たして参考になっているのだろうかと思う時がやってくる。哀愁の時代である。

そういう時に、教師としての役割を真似ることができる先輩、あるいは恩師と呼べるようなヒトを持っているだろうかということを申し上げたいのだ。

教育というのは、瞬間瞬間が勝負である。なぜなら、子どもたちは毎年一定数がいなくなってしまうからだ。それに、校務分掌でもって担当が変わることもある。さらに、学校が変わってしまうこともある。リセットである。

校内人事の関係で担当部活も変わってしまうこともある。バレー、野球、柔道とやってきたが、いつも校内人事の関係で担当が変わってしまったのが、ボキ。

どの部活をやっても不平不満はなかった。それぞれの子どもたちが、ボキを必要としてくれていたからである。仕方なかった。納得してもらうしかなかった。バレーボールを持っていたときは、それでも(*_*) マイッタっけ。選手たちとの決別があったからだ。4月から野球を持たされて、シロウトだったが、やってみた。毎日毎日泥まみれになって、キャッチボールもやってみた。バッティング練習にも積極的に取り組んでみた。そんな姿勢を3月まで持たされていたバレーボール部の選手たちは見ていたのだった。バレーボール部顧問時代は、強かったからでもあった。

大会が終わって選手たちがボキのところに全員そろってあいさつにきたっけ。決勝で惜しくも負けたからだった。全員泣いていた。ボキもだった。別れの始まりである。校内人事で動かされている以上、あきらめが肝心だった。

そんなときに、ボキを慰めてくれたのが同じ学校の先輩たちであった。普段から、授業のやり方とか生徒への対し方とか、いろいろな工夫・コツを教えていただいていたからであった。

先輩たちとは、そういう議論をしながら毎日やっていたのである。むろん勤務時間外である。居酒屋であった。二次会にも行った。カラオケなんか無い時代である。酔えば教育の方法と技術を議論していたのである。マジメな教師時代であった。

つまり、ボキにとっては「教師の教師」である。そういう存在とこころゆくまで議論しあう関係を持つことである。学問の切り売りだけでは、なんともサミシイ。塾のセンセだってふれあいを求めているから、できるのである。子どもたちもそうだ。ふれあいあっての教師稼業である。

そういう議論の中から優れた思想家を探すことである。

ボキの場合は、ニイルだった。このことはまたの機会に書いてみたい。



BYE-BYE!
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こんなカテゴリで思いつくまま、書き流してみることにした

2019年07月24日 16時51分22秒 | 教師の流儀
世に迷っている教師稼業の方々もいるのかも知れない。また、教師を希望していてなかなかなれないという方もいるかも知れない。さらには、教師になってもなんか違うのではないのかとか、転職を考えている御仁もいるのかもしれない。もし、そんな方がおられたら、拙ブログを見て自分に自信を持っていただければと思った。

思ったら早い。こういう記事を書いてみたいとなった。

迷ったら旅に出て欲しいというのは、教師だったジジイの願いでもある。世界は、そんなに息苦しいものではないからだ。普段、冗談ばかり打鍵しているが、こんな記事もあっても良いだろうと思った。さっき、夕方の散歩をしながら思いついたのである。

たいして参考にならないかもしれない。それでも良し。生涯現役だから、打鍵しているうちになんかになるかもしれないからだ。

呵々大笑でよろしい。

笑いながら読んでくだされませ。

しょせん、お笑いブログだから。
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ローンでワンコ。しかも今まで見たこともないデカイワンコ。室内で飼っているのが大いに気にいらない(^0^)

2019年07月24日 07時19分42秒 | とーま君の流儀2019
長女が室内犬を飼っている。あの狭い家でなんちゅうことをやっちまったのだと思った。しかも、ミニチュアサイズのワンコではない。えさだってかなり喰っちまうのであろう。もったいないというのが、最初の感想。しかもローンで買ったのだからアホである。自分らが喰っていけなくなるではないか。計算ができないなぁと思っていた。

そしたら、あっと気がついた。これって、ボキと一緒だって(^0^)。

銭勘定が苦手なのだ。メリットがあるからこっちの味方をするとか、デメリットだからやらないとかがない。ボキの行動基準は、利益があるからというのがないのである。マジに。まったく「利」にうといのである。

だからアホだと言われてしまうのだろう。頼まれごとはなんでも引き受けてしまうし(ゼニ関係はお断り)、だいいち他人に関心がない。したがって、トラブルがない。評価が低くてもまったくハラを立てるということもない。そもそもが低能力だし、人格も破壊されているからだ。人付き合いも下手くそだし、クチのきき方もよくない。これじゃぁ出世できないわけだ。学歴社会にあっても、ボキごとき、最低のもんでしかなかったし。

しかしである。貧乏しているのに、ローンでワンコを買うというのはいかがなものかである。計算ができないというのも、ここまでくると性格の特徴なんだと思うしか無い。育て方が悪かったのかもしれない。居住地の中途半端な自称進学校に入学して、その後大学というところに行った。しかしながら、苦労をしていない。遊学したのである。ボキが苦学したから、なおのことゼニの心配なしに勉強させたかった。

けれども、ローンでワンコである。がっかりしたのだ。

ボキは、ローンが大嫌いである。クルマですら、今まで一度もローンを組んで買ったことがない。利子を払ってまで、なにか欲しいという方々の気持ちが理解できない。モノが先で、ゼニは後からついてくるというのは、なんか違うような気がするからだ。幽霊みたいなものが、ローンの正体なのでは無いのか。

そういえば、ローンという言葉の響き自体があやしい。

ゼニで苦労してきたからこその経験値である。なんと言っても、年間8万円の学費が払えないという親を持ったから、苦学したのである。新聞配達である。このことは、一生のトラウマになっていくだろう。それでも、ボキは感謝している。学費を払えなかった親にである。こういう親のもとに生まれたからこそ、ゼニをバカにしなかったのである。

もっとも、今になっても、ゼニはボキとのふれあいを拒否しているけどねぇ。ゼニが集まってこないからだよん。乏しい年金暮らしをしているだけだし。こんなジジイ生活だけど、満足しているから。なんとか生きていられるし。



今朝も、4時30分から歩いていた。ブラブラ歩きであった。NHKのラジオ講座が始まるから、6時30分までには帰ってくるけど。

良い朝であった。途中、ワンコがいた。どっかのワンコに吠えられてしまった。だから、長女の家のワンコを思い出したのである。

暇なジジイでございまするよ。

でも、今日も良い一日でありたい。いろいろやって、いろいろである。あ、今日の夜は塾がある。タノシミである。指導力の無いボキでも使ってくださる塾があるからだ。実にアリガタヤである。感謝感激雨あられである。


BYE-BYE!
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/