教師になって、自分だけ舞い上がるヒトがいる。必ずいる。大学を出てすぐに**先生と呼ばれるからである。世間のことを知らない。まったく同感である。自分の専門をかたくなに守り、いかに自分の専門としている学問はすばらしいかと絶叫する。
それはそれで良し。そういう情熱は尊い。受験勉強に邁進していくのも、教育の一端であるからだ。
しかし、教師にも哀愁が訪れてくるときがある。自分のやっていること、方向性というモノがこれでいいのだろうかとか、こんなんで子どもたちに果たして参考になっているのだろうかと思う時がやってくる。哀愁の時代である。
そういう時に、教師としての役割を真似ることができる先輩、あるいは恩師と呼べるようなヒトを持っているだろうかということを申し上げたいのだ。
教育というのは、瞬間瞬間が勝負である。なぜなら、子どもたちは毎年一定数がいなくなってしまうからだ。それに、校務分掌でもって担当が変わることもある。さらに、学校が変わってしまうこともある。リセットである。
校内人事の関係で担当部活も変わってしまうこともある。バレー、野球、柔道とやってきたが、いつも校内人事の関係で担当が変わってしまったのが、ボキ。
どの部活をやっても不平不満はなかった。それぞれの子どもたちが、ボキを必要としてくれていたからである。仕方なかった。納得してもらうしかなかった。バレーボールを持っていたときは、それでも(*_*) マイッタっけ。選手たちとの決別があったからだ。4月から野球を持たされて、シロウトだったが、やってみた。毎日毎日泥まみれになって、キャッチボールもやってみた。バッティング練習にも積極的に取り組んでみた。そんな姿勢を3月まで持たされていたバレーボール部の選手たちは見ていたのだった。バレーボール部顧問時代は、強かったからでもあった。
大会が終わって選手たちがボキのところに全員そろってあいさつにきたっけ。決勝で惜しくも負けたからだった。全員泣いていた。ボキもだった。別れの始まりである。校内人事で動かされている以上、あきらめが肝心だった。
そんなときに、ボキを慰めてくれたのが同じ学校の先輩たちであった。普段から、授業のやり方とか生徒への対し方とか、いろいろな工夫・コツを教えていただいていたからであった。
先輩たちとは、そういう議論をしながら毎日やっていたのである。むろん勤務時間外である。居酒屋であった。二次会にも行った。カラオケなんか無い時代である。酔えば教育の方法と技術を議論していたのである。マジメな教師時代であった。
つまり、ボキにとっては「教師の教師」である。そういう存在とこころゆくまで議論しあう関係を持つことである。学問の切り売りだけでは、なんともサミシイ。塾のセンセだってふれあいを求めているから、できるのである。子どもたちもそうだ。ふれあいあっての教師稼業である。
そういう議論の中から優れた思想家を探すことである。
ボキの場合は、ニイルだった。このことはまたの機会に書いてみたい。
BYE-BYE!