と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

いろいろあったヒトは、旅に出かけたらいい

2019年07月21日 19時01分29秒 | とーま君の流儀2019
人生いろいろ、世の中いろいろである。世の中には、シアワセもあれば、その反対もある。挫折ばっかりしてきたボキのような方もいる。挫折の中身もいろいろあった。今でも、それを引きずって生きている。なにしろ成功体験がない。ある目標を決めて、なにがなんでもその目標の実現に向かって・・・というのがなかった。

そんなんでも良いではないか。引きずっても良いのだ。男らしくないと言われても良いのだ。うじうじと生きていて、みっともないと言われても良し。

それで良いのだ。バカボンのパパの台詞のように生きていって良いのだ。

😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊

それでも哀愁を感じるようだったら、旅に出かけることである。旅は、癒やしでもある。可能ならば、ひとり旅がいい。大型バイクでツーリングに行っていたときは、全部一人旅だった。当たり前である。だから、バイクの免許を取ったのである。青空の下を、風圧を受けながらバイクを走らせるのはたまらなく良い。ケツが痛くなるのがしょうもなかったけど。

大げさに言えば、あれでボキは男になったのだ(^0^)。

つまり、テメェで生きていくというような覇気を学んだのであった。孤独は男を鍛えてくれる。太陽の下でも、雨天でも、バイクは一人で運転していくしかないのである。寒いときは最悪であった。手がかじかんでくる。それに耐えながら、ううううううううううううううううとうなりながらスピードを出していくのだ。これがたまらないのである。

アホだと言われたこともずいぶんあった。クルマが買えないのかと聞かれたこともあった。事実買えなかったから、それはそれで良かったが。その代わりにちょっと大きめのバイクで通勤もした。それで十分であった。ちょっとした友人知人もバイクつながりでできたし。


哀愁を感じたら、旅に出ることである。そういう感覚ができてしまったのである。バイクが一番良いと思っているけど。それはそれで今はできないからだ。なぜって、ちょっと体力が無くなってきたからだ。腕力がなくなって、今はバイクも起こせなくなってしまったからだ。腕力とゼニがなくなってしまったからだ(ゼニは昔からなかったけど)。つまり、ジジイになってますます美男子になったからだ。ほれ、よく言うではないか。美男子ほど、腕力とゼニがないって(^0^)。

それでも、旅に出たい。一人でブツブツ言いながら、ソトに出たい。その延長が、これまでやってきた海外旅行なんだなぁと思っている。それも、あと何年できるかわからない。海外の遠い国は行けなくなるだろうし。

孫が20歳になったら、とてもじゃないが海外は無理だ。その時は、国内である。しかも近場。

あ!

その前に、孫が20歳になるまで生きていられるか?ってぇ問題があったっすよん。

忘れていました(^0^)。


BYE-BYE!

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信心というのは、なんのためにやっちょるのかねぇ。地獄にしかいけないボキだからこそ思うのだよん。

2019年07月21日 08時48分47秒 | とーま君の流儀2019
ボキは自分のために祈ったことは一度もない。全部他人の、あるいは血縁の人間たちのためでしかない。もっとも、ボキには九十九里浜に親戚なんか一人もいない(長男はいるが)。全部家人の血縁だけである。家人はこの土地の出身だからだ。いわば、ボキは風雪流れ旅の結果この土地にいついているだけである。

そうなのだ。いついているだけである。

時々成田山新勝寺に行くことがある。それもやはり自分のためではない。家人と息子夫婦、他県に嫁いでいる長女夫婦のことを祈るのみ。それに、自己改造のためもある。

どうせボキなんか地獄に行くしかないのだろうから、いまさらジタバタしても始まらない。天国に行かせてくださいと祈っても無駄である。行けるわけもない。そもそも天国があると信じられないのだから、所詮無理である。

自己改造というのは、ホトホト、オノレに嫌気がさしているからである。もう呆れて呆れてモノが言えない。ましてや、他人を批判することもできない。全部アホなオノレのことしか、アタマの中にはないのだ。失敗や挫折ばかりの人生だったからなぁ。

だから自分のことを自慢ばかりしている御仁のことが嫌いなのだ。

寺院に行っても、僧侶や牧師、神父さんらの話にも期待していない。もったいぶって、偉そうにとしか思わないのだから話にならない。要するに、神や仏のおかげでメシを食っているような種類の人間を信用できないと思っているだけであるから。

講演を聴くことも多々あるが、テメェのことを自慢しているだけのセンセの話は途中で切り上げて帰ってしまう。学問的な講演なら素直に聞く。なぜかというと、こっちにそれだけの実力がないからである。そういうことだけは、ボキ、徹底しているのだ。いかにオノレにチカラがないかということは、正真正銘自覚しているからだ。

要するに、一つの宗教に徹底できないのだ。全部の宗教が好きなのである。全部の宗教は、一つのことに帰一するとすら思っているのだから話にならない。イタリアに行ったときもそうだった。全部合掌していた。インドに行ったときもそうだった。なんでもかんでも合掌していた。セドナに行ったときもそうだった。祈りの場所として有名だから合掌するのである。

これでいいのだ!

これで。

どうせ庶民のバカジジイである。

今日は選挙と相撲がタノシミである。どうなるのやら。そういえば、選挙の出口調査のアルバイトもオファーがあったっけなぁ。やらなかったけど。

わははっはははっはははっはははっははははっはははっははははっはは。
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/