教師は自信たっぷりに毎日教壇に立っているわけではない。自信満々だと、どっかでミスをしてしまう。だから教材研究をしているのである。どっから質問があっても、完全に全部完璧に答えられると思っている教師がいたらそんなのはインチキである。
たとえば、方丈記の冒頭「ゆく川の流れは・・・」をどう教えられるかという問題に限っても重要な話題である。これをす~~~~~~っと通り過ぎているようだと、インチキ教師の道へまっしぐらである。この3月まで千葉市の私立高校で国語科の非常勤講師をしていた。たったの6ヶ月であった。隣席にいらした先生とこの話題について真剣に話したことがあった。懐かしい経験であった。
方丈記というのは、難しい古典である。歴史学の分野からも(『も』である)これをどう教えるか、教えられるかということは重要である。国語教育の分野に、文芸学というのがあって、ボキは20代のころから影響されてきた。だから、方丈記の冒頭をどう教えるか、教えられるかというのは、生涯の課題なのである。これを簡単に人生の空虚だとか言ってはならない。なぜなら、経験値が必要だからである。
ここからいろいろなテーマが発生してくる。なぜ鴨長明がそう書いたのかという話題も出てくる。だからあらゆる論文を検索して読んでいなくてはならない。簡単に考えていると、自分の良心に恥じることになるからだ。ましてや最後に学んだ某大学博士後期課程での、M教授に教えていただいたことが脳裏をよぎる。ちなみに、M先生は日本を代表するような中世文学の泰斗であった。この先生に大学院博士後期課程を一対一で教えていただいたことが、ボキを活性化させたのだ。ありがたい限りである。もっとも、ボキの能力(能力は元々無かった)と健康がダメになって中退せざるを得なくなったが。
しかしである。普段からのそれこそ真摯なる教材研究があってこその教師生活である。夏休みもへったくれもない。そういう努力があってこその、「自信」である。
「教師の自信」というのは、一時的なものではない。あるときだけバリバリと勉強したから身につくものではないのだ。
思うに、教師の親も教師であったヒトほど、そのあたりは身についているのではないかと思う。逆の場合もむろんある。教師の子どもが教師になったときほど、教育委員会にある教師の相談室に駆け込む事例も数多いと聞いたことがあるからだ。
確かに、教師を取り囲む社会状況は厳しいかも知れない。モンスタークレーマーがいくらでもいるからだ。そして、それに対応していたら、だんだんと教師生活がイヤになっちまう可能性もある。
だからこそ、ボキは、教師だからいっても縮こまることなかれと申し上げたいのである。「攻撃性の外向化」を意図的に行って欲しい。つまり、どっかでストレスを発散させて欲しい。道を踏み外さない程度に。
教師は、学校時代おとなしかったというヒトが多いからである。マジメで勉強に熱心に取り組んだからこそ、教師になれたのである。上司やヒトの言うことに従順で、自己反省もする。だからこそ、安心して子どもを任せることができるのである。
教材研究と、攻撃性の外向化をうまく使いこなせたら、その教師は一人前である。
BYE-BYE!