おっさんひとり旅
ボキには両親がいない。死んじゃったからだ。もう40年近く前になる。産んでくれて育ててくれたことには感謝している。山形の温泉町で病弱な男児だったボキを、改善してくれた。厳しい冬も耐えられるようになった。役場の職員と田舎教師の両親だった。
しかし、いろんな意味で影響が大きかった。個性がはっきりしていた。怒鳴られてしまったこと、殴られてしまったことも数限りなかった。亡父は軍人だったからそういうスパルタになったのもムリはなかった。亡母は旧制師範学校を出ていたからある意味教育の専門家であった。だから今のボキがある。これまた感謝している。いろんな巡り合わせで、亡母と同じ職業を歩んでしまった。悔いはない。それなりに充実していたからだ。ただし、教え子諸氏には申し訳ないと今でも思っている。熱血だったからである。今ではとても通用しないからだ。(_ _ )/ハンセイ。
毒のある両親でもあった。なにしろプライドが高かった。息子のボキから見ても能力はあったと思う。だから、逆に毒を持っていた。今でいうところの毒親であった。なにしろ他人の悪口をいうのでは天下一品。欠点を暴き立て、ケンカばかりしていた。他人とも夫婦でも。息子のボキを褒めることもしない。
特に、書道ではずいぶんけなされた。能力がないといじられ、書いた字はことごとく直されてしまった。これはよくない。タダでさえ自信がないのに、ますますやる気がなくなっちまう。反抗期もあって、ボキは字をうまく書いてみたいという意欲を失ってしまった。
だから今でも乱筆乱文である。育て方を間違ったのである。
毒親であっても「スルーしていればよかった」のである。真面目に悩む必要はなかったのだ。ボキのことを思ってくれていたのはよくわかる。センコーになって欲しいというのもよくわかっていた。地元の進学校に入学したのを喜んでくれたしなぁ。そして、亡母の母校である旧制山形師範学校に(現山形大学教育学部)入ることを命令されてしまったのである。二年生のときに、担任から亡父に進学可能な位置にいると太鼓判を押されてしまったのだった。それが火に油を注いでしまったのだ。
今考えると大きなお世話であった。
そして人生に絶望してしまった。山形の田舎でセンコーをやるってぇことは、まるで隠者ではないか。世捨て人と一緒であると、こーこーせーのボキは思ってしまったのである。ペスタロッチの「隠者の夕暮れ」を読んで、そういう世捨て人の生き方に耐えられるかと思ったのだった。17歳であった。それから彷徨が始まったのである。
だから親は毒親になっちゃいけない。そういう毒のある親を持ってしまったら、「スルー」しちゃえばいいのである。ジジイのボキからの拙いアドバイスである。
BYE-BYE!