「怒り」を「チカラ」に転換する方法〈その1〉
真剣勝負に「怒り」ほど邪魔な感情はない。持つべきは「しなやかな強さ」。
【島田紳助】「人に対して怒りを抑える考え方」一流の人間は無駄な戦いをしない…
ほどほどというのがある。今朝は、某女子医科大学が学費を1200万円値上げするというインターネットの記事にひっくり返りそうになった。まさかと思ってその記事を読んだ。そしたら六年間で1200万という話だった。それでも高いですなぁ。苦学してのりきるというようなレベルではない。金持ちのこどもでないと進学できないではないか。
その女子医大は、亡母が合格した大学であった。やはり金欠病の祖父では払えなかった。だから、学費が無料の師範学校に進学したのである。
ど~~~も、ボキンチはゼニがないから、学資に困ってしまう。学部ですら、ボキは自分で稼いで学ぶしか無かったからだ。こういうのは、血統なんかねぇ。情けないけどそういうこった。事実だからしょうがないけど。
修士課程も、博士課程も全部テメェのゼニで学んだ。定年まで稼いだから払えた。それに定年後は生涯学習で過ごしていくつもりでいたし。バイトもいくつかやればしのげると思ったからである。事実できている。今も、修士課程に在学中だし。
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大聖は街に住み、小聖は山に住むという。山に住んで、他人との関わりを断って一人だけ安心安住していてもそんな程度じゃ聖なる悟りには遠い。むろんボキごときモノが、悟り云々と言えるわけもない。しかし、俗なる世界にあってこそ聖なるものにあこがれる気持ちは無視できないような気がしているのだ。俗なる世界と聖なる世界との往還こそ大事なような気がするからである。
ひとのすることにいちいち腹をたて、他人の研究成果のあら探しばかりやっていてもタノシクないからねぇ。
一部の教員とか公務員のごとく、弱者をいじめているばかりの人生もつまらんからなぁ。学者センセとか研究者お大尽のように、偉そうにしていても街の人々からは相手にされないんじゃ。そんなもん、深山幽谷に行って、一人だけで威張ったり、自慢したり、他人をこき下ろしていればいいだけの話でしかないではないか。ましてや、自分の弟子をこき下ろしていたら笑われる。指導したテメェの方に実力がないっていう証だからだ。
俗世間イコール聖である。
忘れてはならんと戒めているのだけど、ボキは。
今日は天気が良い。今日もレポートをやる。最後のレポート。タノシイですなぁ。
わはっっははっっっっははっはっはっっはっははっはっっははは。
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