勢が唄う相撲甚句 「 双葉山 」
20140920 大相撲秋場所7日目 勢vs逸ノ城 勢 逸ノ城の連勝阻止
相撲取りの勢という力士に感心した
在籍大学の方は比較的楽ちんな一日を過ごしている。今日だけはである。珍しく午後から授業がなかったので。時間は楽であるが、しかし、内容がみっちりである。つまり、課題をたくさんいただいたからである。師匠にである。日本一の碩学であると、日頃から尊敬している師匠である。ゴミみたいなオイラの駄文ではあるが、100枚近くを訂正しなくてはならぬ。マイッタな。しょうがないか。今日からまたまたやるべきことがたくさんである。こいつを幸せと云わずシテなんというんだろうかねぇ(^0^)
やはりオイラの能力がないっていうのは、間違っていない。だったらフンドシを締め直して、もう一度チャレンジである。
昨日の相撲で勢という相撲取りがいいことを云っていた。
「一日、一日を大切にして稽古をして、相撲を取ります。結果はそれからついてきますので」ということをである。
なかなかの台詞である。
一日、一日、たとえゴミのような駄文であっても、蟻の如く、亀のごとくやるしかない。オレの場合は、地位も名誉も関係ない。ただの生涯学習者である。
熾烈な競争社会からは放り出されてしまった、単なるじじいである。若い方々の熾烈極まりない競争社会を、遠くからじっと見ているだけの観客である。相手にされないというのは、当然である。
もともと、ゆったりと高齢化社会を生きているだけである。
なんだか思い出すなぁ~♪
オレの愛した、老犬「ジョン」のことを。17歳で死んでいったけど、あれは純粋の紀州犬で、気位も高く、格闘となると最も得意で、オレにまで噛みついてきたっけ。
そういう元気いっぱい、闘志満々のわんこであったけれども、高齢化してからは、妙に、飼い主のオレに(^_-)-☆wをしてきたっけ。悟ったふりをしていたっけなぁ。
ホントは、手抜きをしていたんだろう。
疲れることはやらねぇよんって。
それもまた生きる力でありました。
わははっははっははは。
自主的に道を歩むことは、必ず危険がつきまといます。私がシュタイナーから学んだ事が一つあるとすれば、それは彼が自分の道を歩む時に示す、いわば信じ難いほどの無頓着さであったと言わざるをえません。時にそれは無分別に思えるほどでした。彼は運命が彼の行く手に用意するものを受け入れたのです。
前に桐光学園で中高生に話をしたときにはフロアから立ち上がった高校生が「先生がおっしゃった通り、資本主義の時代がもうすぐ終わるという見通しに僕も同意するのですが」と話し出しました。高校生は侮り難いです。
中高生には「これからは激動の時代に入って、みなさんの両親や教師が知っているキャリアパスは崩れてゆくので、自力で生きる道を探しましょうね」というお話をします。
私がものを書く場合には―擬古文調や、ある種の誇張を行わずに―現代語から、今なお生きている言葉を選び出そうとします。色や音楽の場合も、そうです。そして、この部分を、なんども強調しようとするのです。もちろん、慎重にやりますが。 『ファンタジー神話と現代』
「これから生きてゆくということは、未知の事態にぶつかるということであり、その連続であり、とまどいつづけることでもあろう。人はそういう不安な自己を超えようと手段を講ずる。個人が体験したことから知恵を摘出するだけでは、未来はあまりにも険しすぎる」
(宮城谷昌光『奇貨居くべし』)
少し、柔道もやろうと思う。ジャンル別の趣味である。あるいはジャンル別の人間関係である。ジャンル別のお友達である。Facebookでお友達やっているような感覚でいいのだ、と思う。あまりしんどくない... goo.gl/amnumk
去年の記事 一日一日じっくりとやっているしかないようだよ goo.gl/IHnwji
無限に続く関係性なんて存在しない
柔道に久しぶりに行って、稽古をしていただいた。おさなごたちにである。小さい頃から稽古をして、充分強くなって、少年らしい身体になっていた。身体ばかりではない。クチのきき方もそうだった。オイラの欠点である身体の硬さも指摘してきた。「身体が硬いですね~」だって。笑ったなぁ。
人間っちゅうのは、所謂センセ面をしたがるとは、かねて聞いていたが、こんなおさなごの時代から「教えたがり」なんである。そりゃそうだ。他人に教えるというのは気分がいいもんだろうから。わははっはははっは。
なんの世界でもそうだ。一丁前に、他人に指導者面をしたいというのは。ちょっと先輩面をしてみたいってわけである。それはそれでいい。オイラなんか、そういう方々の習性をおおいに利用させていただいているし。なんでも聞いちゃうからである。理解できないことや、分からねぇことをである。先達に学ぶしかないときは、学ぶ。そういう意味では素直である。
だから「生涯」「学習」なのである。「生涯続く学習」なんである。自慢したくて云っているのではないのだ。オレごとき、自慢できるようなものはなにもないからだ。
今更、履歴書を立派にしたいと思っていても、そりゃ無理だ。そもそも最初から無理だ。髪の毛と一緒だ。オイラの頭頂にはなにもないからだ。髪の毛の「カ」の字ももないからだ。
わははっははっははっはは
履歴書を立派にしたいといっても、使ってくれる場所もなし。だいいち働きたくないのだよん。いいんだ、いいんだ。そんなつまらん世界からは引退したからである。
これからは、履歴書のない世界で生きていかなくちゃならない。
ボランティアの世界である。柔道もそう。やったって見返りはまったくない。おさなごたちにぶっ飛ばされて、イテテテテと云っているしかない。それでいいのだ、それで。
大学でゴミのような自称論文を書いているようなものである。思えば、大学で院生をさせていただいているが、あれもまたボランティアみたいなもんだなぁ。違うか。学費を払っているのだから、圧倒的にオレの方が貢いでいるっていう寸法じゃ。
少し、柔道もやろうと思う。ジャンル別の趣味である。あるいはジャンル別の人間関係である。ジャンル別のお友達である。Facebookでお友達やっているような感覚でいいのだ、と思う。あまりしんどくない関係でも。こういうのを薄っぺらな関係ともいうのだろう。そういうのもありなんである。いいじゃないか。どうせ、無限に続く関係性なんて存在しないのだから。
さ、今日は一日雨だ。
こういうときは、コンピュータで原稿を書くのがいちばんいい。晴耕雨読である。
オイラのもっとも苦手な分野であるけれども。
(;_;)/~~~
120000キロ!大切に乗っていただきありがとうございます^^ RT @achocho291 あぁテンザ、本日10時頃に120000㌔到達(o≧▽゜)o @Mazda_PR pic.twitter.com/hdYRR1Oy0h
年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。周りを気にして人生を狭く生きることはありません。
もし「知性」というものを定義するとしたら、それはネット上でよく言われるような「難解な物事をひと言で言い表す」とか「これを解決すれば世の中がすぐによくなる方法を言い当てる」とかではなく、複雑で明解な答えが出ない問題に対し、瓦礫を一つずつ取り除くように対峙し続ける能力のことだと思う。
論文やレポートの書き方を独習したい人には、戸田山和久『新版 論文の教室』(NHK出版)と拙著『レポートの作り方』(中公新書)がオススメです。
そのような異文化は、我々の視点、自然科学的に解明された観点のみから捉えて見過ごすなら、決して互いに理解し合えません。ある文化を内側から理解しようとする意識を持って、まず実際にその文化の中に入り込まなければならないのです。 『身体の想像力』
大乗山正福寺子安地蔵像:聖武天皇の勅願所として、良弁が開基した寺院。当尊は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて盛んに造立された半跏形式の地蔵尊である。 pic.twitter.com/y7OB077oES
部活指導時間の国際比較
tmaita77.blogspot.jp/2014/09/blog-p…
日本にいると全く気付かないが、日本の中学・高校の部活動は特殊な世界。文武両立は素晴らしいが、活動を学校と一体化する必然性はない。
イスラム国の人質は英ジャーナリストのキャントリー氏か
on.wsj.com/ZcwFqs(Getty) #イスラム国 pic.twitter.com/FQUI0dwe2L
念波さんの考える學問の面白さとはなんでしょうか? ? 認知できる世界が広がったり、その意味が変わったりすることです。 ask.fm/a/bahbfdkk
鏡は我々の意識の象徴です。我々の意識は、この世界を映し出す鏡と全く違わないのですからね。自己を反映する意識が問題になるところではどこでも、私は鏡の像を使おうと試みます。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
宮崎は,1日あたりの平均歩数のジェンダー差が大きい。男性は8061歩,女性は6113歩(20~64歳)。その逆は宮城(男性6439<女性6923)。
100RT:【資産1億】杉村太蔵氏、商社を立ち上げて華麗なる転身
news.livedoor.com/article/detail…
「国民の99%はボクをバカだと思っているかもしれませんが、その私が資産1億円となると…、それはみなさんの勇気になると思… pic.twitter.com/zmU8yelXkd
【ロハス】ストレス解消のためには森へ行け!!
news.livedoor.com/article/detail…
フィンランドのとある大学の研究で、森に行くだけでストレスホルモンが減少するという結果が出た。 pic.twitter.com/Fr2KEnZKL5
【スライドショー】インドネシア・スマトラ島シナブン山の噴火開始から1年
on.wsj.com/1DwY6L1(EPA) pic.twitter.com/gl9YyNHohH
悩みから救われるにはどうしたらいいでしょうという質問をよく受けます。救われる、救われないは、自分の心の問題です。とらわれない心になれば救われます。
【みんなの反応】データえっせい: 部活指導時間の国際比較 - ねとなび netnavi.appcard.jp/e/wn0f#OqjuQec…
教員が、学生にもわかるように説明するのは大事なことで、努力すべきだが、学生の方から「私たちにもわかるように説明してください」と言われると、それはちがう。
自分たちの手持ちの物差しで測れるようなものだけ提示せよと言われても、そうそう測れないような知を与えることが僕らの仕事だから。
【ページ紹介】
人間国宝・野村萬に聞く、伝統芸能とエンターテイメントの違い cinra.net/interview/2014… @cinranetさんから
沈黙というのは言い淀んで黙ってしまうという方の黙るではなく、ある一定のものを表しておきながら、何かを意図的に語らないという意味です。そうしておいて読者の中にそれが湧いてくるのを待つのですね。そういう意味で私は文学は「沈黙」の芸術であって「語り」の芸術ではないと言いたいのです。
さ、これから「ジャンル別友人」に会いに行く。
柔道である。
ちびっ子たちの友人である。
キーボードばっかり見ているから、腰が痛くなってきたのだ。最近。
だから、運動をして... goo.gl/BCluuj
ジャンル別友人に会いに行く
今日のTwitterでエンデのつぶやきを読んだ。
いいこと書いていますねぇ。
>ミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jp 13分
沈黙というのは言い淀んで黙ってしまうという方の黙るではなく、ある一定のものを表しておきながら、何かを意図的に語らないという意味です。そうしておいて読者の中にそれが湧いてくるのを待つのですね。そういう意味で私は文学は「沈黙」の芸術であって「語り」の芸術ではないと言いたいのです。
べらべらしゃべっていたって、なんにもならんっちゅうことですなぁ。オレも、Twitterとか、BLOGとか止めたほうがよろしいようで。でも、あれだ、これもあれも全部止めたら、オレ自身が暇になってやることなくなっちまうですな。Facebookもそう。二つやっているし。一つは郷土史のを。
今週のゼミからは、だまーっていよう。べらべらしゃべっていたって、来年からいなくなっちまう可能性が高いんだったら、おとなしくしているしかないですな。
理論で文学を分析して論文書くっていうのもオイラはできねぇしな。だいいち、そんなアタマがねぇし。本当に鬼来迎が好きで好きでたまらんから、31万字もゴミみたいな駄文を書いていられるのだよん。
たぶん鬼来迎の信仰者なんだ、オレ。
毎年、毎年、見にいっても飽きない。飽きないどころか、涙を流して帰ってくるし。いい年こいたじじいが、鬼来迎の賽の河原の場面でうるうるしちゃうのだよ。あふぉ~みたいだと家のもんにも云われるが、これって、信仰者としての態度だね。まったくまったく。賽の河原で、おさなごたちが、石を拾っている場面でオイラは必ずうるうるしちゃうのだ。
そして、そこに地蔵菩薩や、観音菩薩が現れるのだ。
感動だねぇ~。
今日は鬼来迎の縁起と台詞を読んでいたら、目連救母との関連の単語を見つけてしまった。楽しい、楽しい。論文の構成を大幅にいじって、ちょっと枚数が減ったんだけど、夕方やっていたら、元に戻った。昨日と同じ枚数になった。復活した。喜ばしいことだ。他にやることもないから、これでいいのだ。これで。
中国語講座もやっていただけるようだ。全八回で三千円である。一回ではない。全部で三千円である。講師は留学生だからホンモノの発音が聞ける。大学もいいことをやってくださるもんだ。
さらに、今年前半の執筆で、オイラ、いろいろ浄土教についての新発見をしてしまったので、来年楽しみである。それは、大学を中退したら、あるいは除籍になったら、やはり浄土教を学ぶしかないと思っているからである。中央仏教学院である。年間学費四万である。通教だからだ。6年くらい勉強できる。来年の九月から。
それまでは生きていたいもんじゃよ。
さ、これから「ジャンル別友人」に会いに行く。
柔道である。
ちびっ子たちの友人である。
キーボードばっかり見ているから、腰が痛くなってきたのだ。最近。
だから、運動をしてくる。
柔道なら、できそうだから。
オレでもである。
わははっははっはははっはは。
500RT:【コスパ良い】セブンのおでんを使った「おでん炊き込みご飯」が最強にウマい
news.livedoor.com/article/detail…
200円で売っているパックのおでんと、米1合だけで、激ウマな炊き込みご飯ができちゃうぞ! pic.twitter.com/FrXh4qNQhk
秋田県北秋田市の県立秋田北鷹高校グラウンドで、全校生徒743人による人文字アート「んだっ」が出現しました。大館・北秋田芸術祭の一環ですが、んだっ、に見えるでしょうか→ goo.gl/ywu3kK
【9月23日】古書現世、開店しています。本日18:00までの営業になります。新ネタだった、みちくさ市の残りをお店に出します。100円均一も追加します。
iPhone6は、なぜ売れてしまうのか?「らしさ」という幻想 #BLOGOS blogos.com/outline/94979/
私自身はもうスペック的には十分で、ゲームとか除けばOSの進化にハードが耐えられなくなる感じもないと思ってるけど・・・バッテリー問題は大きいと思うが。
過労死への布石。教師も生徒も。これがブラック企業でも不平言わない日本のつよさですね、わかります(棒。 / “データえっせい: 部活指導時間の国際比較” htn.to/5eLeDy
円楽寺役行者像:山梨県に所在する寺院。『日本霊異記』によれば、役行者が富士山を開山する際に滞在したという。明治以前、当尊は毎年富士山の山開きごとに出張し、富士山二合目にあったという行者堂に安置されていたという。富士講とも縁ある像。 pic.twitter.com/p8M9s1yPi0
「今日も一日、何もせずに終わってしまった…」という罪悪感と徒労感から逃れるための一番手っ取り早い方法は、経験上「お風呂掃除」だということに、先日やっと脳内最高裁で判決が出ました。
10/19に、京都嵐山で斎宮行列の再現やって∑(゜Д゜)
源氏物語の世界を再現。
野宮神社、渡月橋あたり。
いやぁ、紅葉も始まった頃で、ほんまに絵巻物のようやろね~? pic.twitter.com/MAn5MDhUCG
偏見だとは思うけど、学芸員の採用枠があったからというだけで縁もゆかりもない土地に来た人が、地域に関する研究とか調査とか、熱意を持ってやるのかな?と思うことがある。「外から来た人間の目で見ると新たな発見がある」とも言えるんだろうけど。
私が腹立たしく思うのは、これまで自然に対してめちゃくちゃに破壊してきたから、将来は破壊の手段をもっと巧妙にしようというふうに議論が進むことです。つまり、原罪の工業組織、社会のあり方をそのままにしておいて、少し悪賢く自然を搾取しようという態度です。 『三つの鏡』
法輪寺薬師如来坐像:奈良県斑鳩町にある聖徳宗寺院。聖徳太子の子・山背大兄王御一族の現世利益を祈願して鞍作鳥が造仏した。当寺の三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産・法隆寺地域の仏教建造物には含まれていない。 pic.twitter.com/X8sB75X4qt
いまあるものだけが正しいと思い込んで頑なに守って
いるだけでは、未来はありません。
未来へと大きくつなげていくためには、自分たちとは
違うものを認め、受け入れ、その上で自分自身が立つ
べき場所を定めることが必要なのです。
【千玄室/茶道裏千家第15代家元】
そもそも、じじいになっても生涯学習をやっているというのが goo.gl/2s0o8R
じじいの少数派
健康番組を21:23まで見ていた。民放の番組である。「林修の今でしょ講座」ってやつである。今日のは、健康特集である。健康には人一倍気をつけているタイプというのではあまり無いが、今日は祝日なので、夕食をいただきながら見ていたのである。そしたらはまった、はまった。実は、この記事もテレビを見ながら書いている。そうなのだ。あまり苦労しないで、拙ブログを書いているのは「ながら族」であるからである。
ま、そのおかげで間違いが多い。文章にである。まじめな文章はこうはいかない。きちんと、ながら族は封印して書いているけどね。(^0^)
しかしである。
フランスにはこんな話もあるそうな。
「フランス人は、『健全な精神は、健全な身体に宿る』とは誰も思っていない。身体が丈夫なだけで、なにも考えないような人間はどうしようもない」っていう、実に笑ってしまうくらいに、人間の真実を捉えているような言葉である。
だろうなぁ。身体だけが丈夫で、なにも考えないって・・オイラもこれに当てはまるなぁ。齢、63歳になって、なんの薬も呑んでいないからだ。血圧の薬も関係がない。
だから、身体だけが丈夫で、なんにも考えていないって云われたら認めるしかない。
そういうようにならないためにはどうすりゃいいのか?
オイラは、「じじいの少数派」になろうといつも思っている。じじいだから、退職したから、引退したから・・・消極的になって、誰ともつきあわず、なにもしないで、家に閉じこもっているということだけはやらない。
やることを次から次とみつけて、行動化する。
マスコミへの疑いもそれである。大マスコミの云っていることは、殆ど信用しない。逆に考えることにしている。そしたら、今回**新聞の事件が起きた。あれは、ずっと疑っていたことであったからである。
テレビも信用しない。マジにである。だいいち、記事にするのに、裏をとらないで記事や番組にしてきたことがどっだけあったのかということを知ってまことに残念に思うからである。自称エリートたちが、かわいそうにと思うのである。オイラの出た高等学校にもいっぱいいたよ、自称エリートが。(^0^)
オイラは、自称他称の自虐的劣等生であったし、今でもそうだけどねぇ。残念ながら。
オイラは、研究者でもなんでもないただのじじいだが、裏をとらないで論文を書くことはまったくない。裏をとったら、必ず参考にした文獻は書く。書名、著者名、出版社、出版年月、頁等々必ず書く。それが仁義だろう。
そもそも、じじいになっても生涯学習をやっているというのが、「じじいの少数派」なんだろうけど。
わははっははっはっはっははははは。
(;_;)/~~~
時代と共に世間の風俗、風習は変化し、それにつれて、人々の思想も道徳も法律も変わっていきます。革新して良くなる場合もあれば、改悪して後退する時もあるのです。
世界の歴史の中では、創造的誤解といってよい影響関係がよく生じます。ある種の外面的な形に目が行って、「あ、これはいいな、きれいだな」と思うと、取り入れるということをしますね。そこに含まれる内的な姿勢は取り入れることができません。 『三つの鏡』
反現実主義者イエスにとって、言葉は何一つとして文字通りには解されないということこそ、およそ彼が言葉を語り得るための前提条件である。-反キリスト-
王妃の階段 王妃の居殿に通じている「王妃の階段」。正殿の「使節の階段」と対比を成しているそうです。 pic.twitter.com/wtSv3wDeww
私たちはもう、ただ素朴に創作をしていればいいわけではなくなってきます。つまり、引用にしても、なぜなのか、の意識を明確に持つ必要がある。ナイーヴな創作態度ではやれなくなる、と言いたかったのです。 『三つの鏡』
絶望的な境遇に身をおいて、はじめて自分という者がわかった声である。人はほんとうに独りにならなければ、自分がわからぬものか。
(宮城谷昌光『孟嘗君』)
■「"yes, today is a very good day to die."」(訳:今日は死ぬのにもってこいの日だ。)【タオス・プエブロの古老の言葉】
人間が好きで小説書きになった私にとっては人との出会いが、たとえそれが苦痛や悲哀を伴っても、生きている何よりの証として、有難いことに思われます。
“@sarisally1” RT @yu_neria 機内食のメニューは和文より英文の方が詳しいから(入ってるものとか)英文見るんだけど、今日のには笑った
英文:牛肉の薄切りと玉葱の醤油味醂煮を蒸し米に乗せて
和文:牛丼
ボロブドゥール遺跡 バリ島ってビーチやエステのイメージが強いんですが、
こういう素敵な遺跡もある島なんですよ^^ pic.twitter.com/fAYrR5Iswx
お先にどうぞ」の精神であるということである blog.goo.ne.jp/tym943/e/b72bf…
うん、円空さんとちょっと似てるけど、円空さんより100年ほどのちの江戸後期の人で、ますらをぶりな円空さんに対して、まるっとにっこり穏和な作風が特徴!柳宗悦先生が再発見したんだよ! @c4blueghost @butsuzobot pic.twitter.com/uDGQ7gVZtm
人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたとき、年老いていく
「道」
この道を行けばどうなるものか
あやぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり、その一足が道となる
迷わず行けよ... fb.me/2JSBsNtdc
禿げ頭の向こう側には
「禿げ頭の向こう側には、若者が想像しているよりも多くの至福がある」
というのはアメリカの随筆家であるローガン・スミス氏の言葉である。どうです?笑っちまうでしょうねぇ。オイラもこうなるまでは、じじいになったらそんなに幸福な時は、あまりないだろうと思って覚悟していたのであるよん。マジに。
しかしである。
これはこういうことでもあると思うのである。それは、「お先にどうぞ」の精神であるということである。なに、「お先にどうぞ、死んじゃってください」というのではない。そんなことを申し上げたら、血気盛んなせーねん、しゅくじょたちに叱られてしまう。
そうじゃなくて、米沢興譲館の精神である。興譲とは、儒学者細井平洲先生(オイラの母校の初代校長、ちなみに300年前の先生)がつけたとかいう言葉で、譲を起こすということである。譲とは、「譲る」ということであり、まさに「お先にどうぞ」の精神である。
なに、今日はそんなことを言いたいのではない。
「オレは、じじいではない」
「まだまだわけ~モンには、まけねぇぞ」
というような高齢者の気概を示している言葉っちゅうのがこれであろうと思うからである。ハゲているのに、まだまだ娑婆っ気があって、色気むんむんで、わけぇおなごにモテたいという実に馬鹿馬鹿しい妄想を抱いているのは、要らざる力にみなぎっているってぇもんである。
若い世代に負けたくないっていうのはわかる。
わかるが、それはオノレの老いから目をそらしているだけである。結果的にはムリをして、病気になってしまう。周囲に迷惑をかけてしまう。
心を若くするっていうのは、実に大切なことである。それはそれで大いにわかる。しかし、体力だけは正直である。
そうなのだ。もう荷を降ろすべきなのだ。「がんばらなくてもいい」のである。それこそ老いの特権である。少なからずがんばってきたのだから。
若い世代から、思いやりで、席を譲ってもらったり、かわいそうにと同情されたら素直に受け取ればいいのである。オイラなんか、東京でずいぶん親切にしていただく。電車しかり、エレベーターしかり。建物のドアすら美女に開けていただいたことも数限りなくある。
やせ我慢なんかしない。意地も張らない。
若い世代に対抗意識を燃やしてなんになろうか。年齢相応に生きればいいのである。悠然としていればいいのだ。誰にも相手にされていないのだから。
だから、「ありがとう存じます」「シェーシェ」「サンキュウ」を大切にしているのだ。
ムリしてはアカン。
ムリをしない自然体が一番である。
柔道だって、自然体が一番強いのである。
生涯学習で大学に通っているが、これもそう。ムリはしない。学位も、卒業もお先にどうぞと云っている。周囲のクラスメイトたちに。
大学や、師匠におおいにご迷惑をおかけしているからである。若い世代には夢がある。これから活躍していただかなくちゃアカン。
オレはそういう方々の邪魔だけはしちゃならんのである。
そういふ若い世代の成長を見ているだけで、「至福の時」なのである。
わははっははっははっははっは
(^_^)ノ””””
寛永寺阿弥陀如来像:天台宗関東総本山の寺院で東叡山と呼ぶ。徳川将軍家の祈祷所であり、歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、幕末の上野戦争で主要伽藍を焼失した。 pic.twitter.com/B1m4zj2LUU
公立小学生男子の運動部・スポーツクラブ所属率。港区と足立区の比較。スタート地点での差が大きい。地域の経済力と関連した「体力格差」の一因,ここにありか。 pic.twitter.com/FqlCw4kTHa
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
唯物論者というものは、馬に乗って水中を泳ぎながら、馬の脚をもって馬をもち上げ、前の方にかぶさってくる自分の弁髪を引っ張って、自分の身体をもち上げようとするかのほら男爵ミュンヒハウゼンによく似ている。
天念寺にきた。昭和16年の水害で、伽藍が殆ど流されてしまったらしい。
神社の前にも石の仁王さんが!
川の中にお不動さんがいる。 pic.twitter.com/tJg0hvYewK
女子プロレスも相撲も一緒なんです、オイラには blog.goo.ne.jp/tym943/e/1be57…
一人で行動できないと早く老ける blog.goo.ne.jp/tym943/e/64888…
迷ってばかりいる愚生には、とてもとても実行不可能なことである。
てめぇのことばかり考えていて、師匠をはじめ、クラスメイトたち、あるいは新旧あわせたところの友人たち、wifeをはじめとする家... goo.gl/PsMCHT
皆神山の謎 第四部 一厘の仕組篇 第十章 飛鳥・大和三山の謎に迫る 改訂版 goo.gl/kQ0a1m
日本列島の誕生 1/3 blog.goo.ne.jp/tym943/e/940cf…
日本列島の誕生 2/3 blog.goo.ne.jp/tym943/e/6eb77…
日本列島の誕生 3/3 blog.goo.ne.jp/tym943/e/60204…
【仏像通信】(´-`).。oO(円空仏の模型を触ったり遊んだり拝んだりしながらくつろげるカフェだれか作って。 pic.twitter.com/oKgylh6CXp
小1男子児童のスポーツクラブ所属率マップ(東京)。地域性あるわ。住民税課税額との相関係数は+0.600,1%水準で有意。 pic.twitter.com/1glS0tdkUr
上野大仏:江戸時代初期に村上藩主・堀直寄が戦死者慰霊のために建立するも度重なる災害で倒壊したため、堀直央の寄進により大仏を新鋳再建した。しかし、関東大震災で完全に崩壊し、再建のめどがたたなかったため、現在は頭部のレリーフのみ残る。 pic.twitter.com/YQ9pAPU5lu
千光寺円空両面宿儺坐像:両面宿儺は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人。『日本書紀』においては武振熊命に討たれた凶賊扱いされる一方、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった逸話も残されている。地域色豊かな円空仏。 pic.twitter.com/ZyjnC4ZFnH
円空如意輪観音菩薩像:岐阜県にある東山神明神社蔵の円空仏。東京国立博物館140周年特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」で紹介された。神明神社とは、天照大神を主祭神として伊勢神宮内宮を総本社とする神社である。 pic.twitter.com/fbVjM08iol
【摩訶不思議】昏睡から目覚めたらバイリンガルになっていた豪州人
news.livedoor.com/article/detail…
自動車事故で昏睡状態に陥ったマクマホンさん(22)は、1週間以上経って昏睡状態から目覚めると、流暢な中国語を話し始めた。
pic.twitter.com/1rHvVPFxqx
住民の富裕度とスポーツクラブ加入率の相関(23区)。年少児童でみると,有意な相関関係あり。港区と千代田区を外れ値として除外すると,相関係数は+0.88にアップ。 pic.twitter.com/69Q578D36D
【木喰弾誓上人】江戸時代前期の長髪異相の浄土宗僧。木喰を実践しながら諸国を遍歴して阿弥陀仏の説法を感得した。後に幡随意(家康傘下の僧)の法をつぎ、円空にも影響を与えた。浄発願寺を開基し、罪を犯した男の駆込寺とした(殺人放火を除く)。 pic.twitter.com/c02FrM6yXO
箱根阿弥陀寺弾誓上人像:江戸時代初期の木喰の開祖。民衆仏教のカリスマ的存在であった。木食とは、木食戒(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のを指す。なお、木喰仏を彫刻した木喰は江戸後期の遊行僧で、弾誓とは関係ない。 pic.twitter.com/2Nfk0YuMHY
善徳寺於竹大日:江戸時代、大伝馬町佐久間勘解由の下女・竹は、日々の食を貧しい人に与え、自分は洗い流しの飯粒を受けて食事にしていた。そのことから、生きた大日如来といわれ、於竹大日如来信仰が生まれた。桂昌院や小林一茶、坪内逍遥も信仰した。 pic.twitter.com/m4IQdBDo9H
立石寺奪衣婆像:山形県にある天台宗寺院で、通称・山寺。開基は円仁。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で立ち寄り、「閑さや巖にしみ入る蝉の声」と詠んだことでも知られる。奪衣婆は三途川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。 pic.twitter.com/AK27EEaGd8
輪王寺三仏堂日光三社権現本地仏:日光山にある天台宗の門跡寺院。当寺の本堂は東日本で最大の木造建物で、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式の寺院である。現存の本堂は江戸幕府三代将軍・徳川家光によって建て替えられた。 pic.twitter.com/GAAayeZZPU
百済寺聖徳太子孝養像:信長の焼討で廃絶した湖東三山の一角・百済寺だが、江戸期に将軍家光による百済寺再建計画により復興した。当尊は落慶記念奉納品として将軍から送られた。なお、将軍の乳母・春日局が大奥で拝んでいたものである。 pic.twitter.com/KjO60XHHL6
旧寛永寺五重塔安置釈迦如来坐像:旧寛永寺五重塔に安置されていた四仏の内の1躯。塔は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の側近・土井利勝が創建した。御用仏師である七条仏師による制作。七条仏師は慶派の流れを汲む制作集団で、鎌倉時代の技法を踏襲する。 pic.twitter.com/TT6xLsHwMW
知恩院三門内部:知恩院は浄土宗総本山の寺院。開基は浄土宗開祖・法然。現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降で、将軍家から信仰を集めた。天井には江戸時代の絵師・狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師による竜などが描かれる。 pic.twitter.com/HlhYThelcA