信仰なのだ。論文信仰。鬼来迎信仰。信仰が趣味なのだ。
昨日は後期のゼミ、講義をいただいていたので若干疲れてしまった。早く寝てしまった。クルマで通学しているのが、仇なのかなぁと思う。夕方gymにも行ったけれども。350枚の雑文は構成を変える。組み替えてみる。ま、順番をいじるということである。ついでに内容も変更じゃ。変更。変更ついでに、追加の文章も書く。しかし、好きだなぁ~と思う。鬼来迎一筋である。それだけで、次から次へと書くことがアタマの中に登場してくる。
事実、今年の施餓鬼法要を見て、鬼来迎を見て、それから映像撮影に入ったのであるが、鬼来迎のある場面では感動のあまり泣いてしまった。この鬼の如き悪相をしたオイラがである。賽の河原の場面である。毎年である。毎年ここの場面にくると目からウルルと出てくるのである。
亡者妙西信女と、幼児たちが、オノレの罪のために、賽の河原で石を拾っているのである。そこに地蔵菩薩や、観音菩薩が登場してくださるのである。
ここにオイラは、古い意味での日本古代から伝わる信仰の古層形式を見ているのだが、法然教や親鸞教とはまた違った意味での浄土思想の影響があるとずっと書いているのである。間違っているかもしれないが、逆に真実かもしれない。
本当にこころから思う。
「趣味」なのだなぁ~って。
鬼来迎信仰といってもいいのかもしれない。
だから、だれに何と言われてもいいのだよん。どんなに徹底して嫌みを言われても、悪口雑言言われても「信仰」なのだから、耐えられるわけだ。人間や組織を相手にしていないからである。だから、生涯のテーマをいただいたようなものである。高い金をかけて生涯教育をさせていただきながら、研究手法を教えていただいたのである。感謝とともにある3年間であった。もうこれ以上はカネをかけられないから、学位がとれてもとれなくても、在籍大学には感謝しているのである。追求テーマが、みつかったし、手法も見えてきた。
見えてきたついでに、オイラの基礎学力不足も十分見えてきたけどね。
こいつが一番納得できたよん。どっだけ、オイラがアホであるかということも十分わかった。十分すぎるほどわかった。語学もそう。英語も、中国語もみんなダメであった。昔からそうだけどね(^w^)
そもそも母校の修士課程だって、受験すら許可いただいていなかったくらいの剛の者である。情けない。だからこんなオイラが、研究者だの、学者先生だのを目指してはならないのである。だったら、あとは「趣味」でいくしかないのである。鬼来迎信仰者である。わはっはははっはである。
鬼来迎の寺である広済寺は、真言宗である。
こちらにも興味がある。四国巡礼にも行ってみたいと思っているのはそのせいもある。だんだんとオイラは死が近づいてきつつある。永遠には生きられないからである。ガイコツの姿がオレを待っているのだ。愛だの、恋だの、実績だの、出世だの、そういう亡者として生きていてなんになろうか。「愛なんて無」という小説があったが、まったくそう思う。表面的な諸相でしかないのである。愛が永縁ならば、離婚なんかあり得ないではないか。
さ、今日からまたまた雑文を書く。
信仰なのだ。論文信仰。鬼来迎信仰。
信仰が趣味なのだ。
わははっはははである。
(^_^)ノ””””