悲しい酒 美空ひばり
ボキは、現役の職業人だったころはカラオケをよくやった。社交だと思っていた。今は、そんなことはない。呑む席には行くことがあるが、たまにである。だからおもしろくもなんともないジジイである。
しかし、こんな風になるとは思ってもみなかった。友人と会うのが楽しみでもあったからである。今は、できるだけヒトと会わないことにしている。アルコールがからむからである。それほど好きだったのである。残念ながら。
なにが残念だというと、ボキはそれで人生を失敗したからである。健康を害したからだ。
最近は、結婚式も神前とかでやららない。友人の前で誓い合う。しかし、ある種の危惧がある。友人の前で誓っても、そんなの破り捨てられてしまうではないか。
だから離婚が多いのでは無いのか。
友人なんて、ある一定の距離があって初めて友人なのである。神とか仏とは誓う対象が違う。だから真剣味が不足しているのである。
ま、これくらいにしよう。
で、カラオケのことなのである。歌のことなのだ。しかも演歌である。ボキはこれくらいのタノシミは持っているからである。
つまり、歌がヘッドフォンの中に閉じ込められて、空中を飛ばなくなったということなのである。
阿久悠という作詞家が、「前略 歌が空を飛ばなくなったと申し上げたことがあります」と、「書き下ろし歌謡曲」(岩波新書)に書いているのだ。「近くには、ミュージックはあるがソングはない」とも。
あっと、驚いてしまったのだ。
そう言えば、老若男女ヘッドフォンというか、イヤフォンというか、そんなもんを耳につけている光景が目に付く。電車の中でもスマホ全盛である。なかには、自転車に乗りながらスマホで音楽を聴いているのもいる。危ないこと限りなし。
ボキは、そういうミュージック全盛の時代にあっても、演歌が好きである。つまりソングが好きである。
特に、美空ひばりが大好きである。
ある種独特の悲哀感がただよっているではないか。名曲「川の流れのように」もそうだ。人々の胸の内に浸透し、その内向する心の扉をこじ開け溶け込んでいく。
世代を超えて、感情の高ぶりや不安を慰めてくれる。悲哀感というのは、母心のようなモノなのかも知れないとボキは思っているのだけれど。
比べて短歌や和歌はどうだろう。
短歌や和歌は、文学のカテゴリーに属していて、ある種高尚な構図を持っている。同じ感傷を扱っても、短歌や和歌には一筋の清流のごとき感じすらする。同じ愛や、死を悼み・・・ということですら、高尚になってしまう。
比べて演歌はどうだろう。底流に流れる軽薄な遊戯という感すらある。恨みとか未練、恋情などの解毒作用を持ったソングでしかないとされてきた。
しかし、ほんとうにそうだろうか。
短歌の勇者である斎藤茂吉と、美空ひばりを比べてみても、まるで違う。斎藤茂吉の場合は、上品・高等、美空ひばりは通俗だと言ってさげすんでも良いのかと感じてきたからである。
「悲しい酒」という名曲なんかには、人生の真実がある。
ううううううううううううううううううううううううううむ。
あれ?
2000字になろうとしている。
止めよう。
またこの続きは明日打鍵してみるけど。
BYE-BYE!
[原因解明?] プリウスミサイル状態を新型プリウスで再現、検証してみた
叙情が喪われて久しい。最近のただただうるさいだけの歌にも閉口してしているが、無駄に明るいだけの若者もずいぶんいる。あ、これは若者だけではない。ジジイやババアもそうだったよん(^0^)。
ボキがその典型だった。無駄に明るいだけのジジイであった。
(_ _ )/ハンセイ
昨日、梅雨の晴れ間に夕方九十九里浜にあるスパに行った。昨日も記事にアップしたが、フロと洗面台の交換工事をしているから使えないのである。使えないのは、ボキもそうだが。無用の長物だから。
わははっはははっはははっははっはあっははっはははっははは。
それで、帰り家人と一緒にボキのクルマで家に向かったのである。そしたら、九十九里平野のむこうに沈んでいく夕日がなんとも言えないほど良かった。美しき黄昏である。人生の落日。沈み込む希望。さりとて絶望もない。絶望なんか、とっくの昔に捨ててしまったからだ。なんの憂いもないままの日常。明日も生きて起きていられるだろうかとは思ってもみないけど。
まさに、ボキ等夫婦と一緒である。ボキ等は同い年だから、運命共同体。どっちかが早く死ぬだろうが、同時に死ぬということはあり得ないだろう。飛行機事故を除いては。
で、珍しく家人と夕日を見ながら、良いモンだねぇと会話をしていたのである。こんなことも夫婦そろって会話できるだけ、シアワセというもんである。ありがたいことである。こんな定年後の生活が待っているとは思ってもみなかった。
某大学大学院を中退して良かったとしみじみ思った。あのとき、死んでいたらもう夕日を見てしみじみと現在のシアワセを感じることなんぞなかっただろうからである。
もうなんの未練もない。博士にはなれなかったが、これも運命。生まれたときからのシナリオどおりであったのだ。断念することも教育の主要な柱であると考えてきたが、正解だったのである。
それで、夕日である。
夕焼け 小焼けの 赤とんぼ
負われてみたのは いつの日か
という歌詞がある。
これである、これ。ネェヤの背に負われて見ていた夕日だとか、否、母の背に負われて見ていたという説があるが、どっちでも良いような気がする。
その「いつの日か」が、かすれてしまっている。記憶がはっきりしない。もう遠くの世界に行ってしまっている。
この歌詞の最後は、
夕焼け 小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先
で終わっている。子どもはあったかそうな、愛情たっぷりな背中で竿の先の赤とんぼを見ている。その遙か彼方に、夕焼けが広がっている。子どもの視線は、赤とんぼに止まっているが、子どもは夕焼けに包まれている。遠くに夕焼け、近くに赤とんぼ。そういう構図である。美しいではないか。
こういうのを叙情というのである。
しかしである。こういう風景を見たことの無い小学生が43%もいるのだそうな。ある調査によると。
遠景としての夕焼け、全身を包み込むような落日の光景が消えつつあるのだ。
この歌の歌詞は三木露風、曲は山田耕筰であるが、このことを知ったらなんと言うだろうかと思う。
さらにある。三木露風が住んでいた三鷹市の駅前にあった「赤とんぼの碑」は、心ないものに破壊されていたのだ。三木露風は、5歳の時に母が家を去っている。離婚したのである。山田耕筰も、17歳のときに母をガンで喪っている。だからというわけではないが、この歌には母を慕う叙情がただようと思うのも必然である。
叙情というのは、忘れがたい。
歴史の会で、来年の三月第二週に千葉市民会館で2時間ほど話をさせていただく。ボキがやるのである。良かったら来てみませんか。「日本芸能の観点から見た語りと歌」という話である。動画もふんだんに出てくる。実物のボキが見られる(*´∀`*)。・・そんなヒトいないか。
BYE-BYE!
【紅く染まりゆく ひつじ雲】夕焼け景色のタイムラプス動画4K60fps
風呂と洗面台をリフォームしている。昨日からである。この家に住んで30数年たった。ガタが来ているからだ。もっとも、ボキ自身もアチコチガタがきているけど(^0^)。
で、昨日の夜は風呂がない。ないから、スパに行った。九十九里浜には、アチコチにスパがあるから助かる。
そしてびっくりした。料金が安いのである。ときどきこのスパには行っていたが、土日は1000円する。平日の昼間だと、700円。
ところがである。昨日は、シニア料金。なんと400円であったのだ。笑ってしまったのだよん。
免許証を見せればOK。
ありがたいもんである。ジジばばに優しい料金になっていたのだ。
このスパは、津波で被害にあった。昨日入った風呂は、海に呑み込まれてしまったのである。今は、きれいだが。露天もあるし、泡風呂もある。サウナだけがない。
ボキは、温泉町で育った。だから、風呂が大好きなのである。ちょっと疲れたら、温泉に行くのが習慣だった。一時間でも二時間でも、温泉の大浴場で過ごしていたのである。20メートルはある大浴場であった。そこで、プラモデルの船とか潜水艦とか浮かべて思い切り遊んでいたのである。近所の悪ガキたちとつるんでいたし、懐かしい思い出である。
そんなわけで、昨日はスパである。むろん千葉県である。純粋な温泉では無い。海の近くからくみ上げた沸かし湯である。それでも、万病に効く。痔疾にも良い。こりにも効く。筋肉痛にも良い。
色は、緑色になっている。これは海のすぐ側にあるからだろう。ところが、けっこう良いのである。科学的なことはよくわからないが、成分が万病に効くのだろう。
それに魚も美味い。野菜も日本一。
農業も、漁業も、潮風も日本一である。風光明媚。遊ぶ場所はなんにもないけど、これがボキには健康的で実にけっこうなことなのである。酒さえ縁を切れば、いつまでも長生きできるというもんじゃよん。
いつまでも、しつこく長生きをしていきたいもんである。九十代までは生きてみたい。そして、あのジジイ死ぬのを忘れていやがると言われたい。
わはははっはははっははははっはははっはははっははははっはははは。
長生きのコツは、「生涯学習」にありとボキは思っている。いつまでも惚けないで、しつこく生きていくには生涯学習である。場所はなんでも良い。きっかけもなんでも良い。通信教育だろうが、図書館であろうが、どこでもなんでも出来るのだ。
これがコツである。生涯学習の。
ゼニがかかるのは可能なかぎり避けたいが、これも自分の楽しみでやっているのだから、致し方なし。
アルコールとかスナックや、女遊び、賭け事等々自己破滅するきっかけは多いが、そんなもんにうつつを抜かしているよりは良い。
さ、今朝もすでに8000歩は歩いてきた。Metsである。時間にして、二時間近くである。
帰ってきて、家の庭で太極拳もやったけど。
BYE-BYE!
Yuriyan Retriever Teaches Simon Cowell How To Dance! - America's Got Talent 2019
「酒を呑まない」「朝日を浴びる」「運動する(歩く)」というのが、うつを直す効果的な方法であるそうな。動画で精神科の医師が言っておられたので、昨日拙ブログにリンクをかけておいた。この記事の前にアップしておいた。ボキは、うつでも躁でもないが、この先生の言っておられることには納得した。
明るく元気に生きていくには、この三点が大事なような気がしているからである。
「酒を呑まない」「朝日を浴びる」「運動する(歩く)」である。
実体験としてそう思う。酒は呑まないというのはちょっと難しい。ヒトに会ったら間違いなくそうなってしまうからである。しかも、否定しない。酒をである。たまには良いではないか。呑んじゃっても。ヒトに会ったら懐かしい話題もあるからだ。もっとも、ボキは女性とはまるでご縁がないから、熊のようなむさ苦しい方々としか呑まないけど。あ、これって熊のようなという言い方はいけないなぁ。ボキのブログの存在を知っている御仁もいるからである。熊が悪ければ、光源氏のような高貴な御仁の方々である。あるいは、知性ある熊である。賢い熊である。熊だって、かわいい顔をしているのもいるからなぁ。しかし、柔道の知り合いは、熊以上である。いかつくてとてもじゃないが、顔を見る気もしないからだ。おっかなくて。
わはははっはははっはははっはははっはははっはははっはははっはは。
「朝日を浴びる」というのは確かにそうだ。エネルギーがくる。あるいは、「気」がくる。やってくる。天からやってくる。今朝も、4時30分には歩き出した。そして、図書館の脇にあるウオーキングできるトラックで、太極拳の復習をやっていた。良いモンである。気が満ちてくるような気がする。一日の活力が満ちてくるような気がする。動画でも先生が言っておられるが、朝日を浴びることで、うつのクスリが効くようになるのだそうな。むろん、ボキはそういうクスリは飲んでいない。それでも、元気のもとになるのだろうなぁとは思う。
実際、うつで苦しんでいる方々には、叱られそうだ。そんなもんじゃないって。そもそも外出できないからうつで苦しんでいるのだと言われてしまったら、ボキは一言も反論できない。医療的なことは一言も言えないからである。シロウトではないか。
でも、体験として朝日を浴びることは良い。なぜか。糖尿病を克服したからである。
最後の「運動する(歩く)」は、ボキの得意技である。柔道もそうだった。しかし、柔道は健康には良くない。太るからだ。パワーもつけなくちゃならない。これが良くなかった。さらにある。柔道の熊のような御仁たちとのおつきあいが、激しかった。酒がからむ。だからもっと太る。今の体重が信じられないのである。なにしろ72キロ前後をいったりきたりしているのだ。現役時代が信じられないのである。現役時代には、84キロあったのだから。
なにしろ歩くのは、万病にきく。医者いらず、クスリも不要になるらしい。らしいというのは、全部当てはまるとは限らないからである。それでも、歩くのは良い。健康に良い。
しかし、さっささっさと速く歩くのはおすすめできない。足を痛めるからである。手も振らない方がいい。
ブラブラ歩きで良いのだ。ジジイになって、時間だけは十分あるから可能なんだけどねぇ。
徘徊に間違われそうなのが、ちょっと気になるけど。
ま、元気で健康で明るく過ごせれば、それで良いのでありまするよん。
BYE-BYE!
いくらわびても、謝罪しても恫喝してくる相手がいる。否、いた。今はいないけど。こんなのを書かせたら、ボキはいくらでも材料があるんだよん。デカイ論文まで書けそうだ(*^O^*)。
こういう手合いは、警察や弁護士に相談しているという手法を使って、いざとなったら事件や犯罪行為としますよと伝えるしかない。プロはそういう手を使うとひるむ。プロだからこそひるむ。
それでも結論が出ない場合は、「積極的放置」をしておくしかない。話が通じないからだ。そして、録音させていただきますとか、記録しますとやっておくことである。犯罪になるのは、恫喝している方が困るわけだから。いわば相手の弱点を突くわけである。
間違っても、文書にしないほうが良い。後でとんでもないことになる。もし、それでもどうしようもなかったら、文書の専門家に相談することである。弁護士が一番良い。複雑ならである。
それにしても、モンスタークレーマーが増えた。学校教育に関しても増えた。
全員自分のことしか考えていないからである。あるいは、我が子のことしか考えていないのである。情けない世の中になったもんじゃよ。
私的なことしか考えていないのだ。まちがってもボランティアなんて概念はないのである。公的な観点はゼロ。他人のために働くなんてぇこともまるっきり考えていないし、行動もしない。一時的に腹が立ったと言っては、暴言を吐いてこれまでの人間関係をチャラにしてしまうのは平気のへいざ。俺に会いたかったらアポを取ってからコイと、のたもうた自称偉そうな御仁もいたからである。そんなのと、会う必要も無い。アポとって会うだけの価値がある人間かと冷笑してしまったよん。バカがバカになにを言っているのだと感じたねぇ。
ともかくアホとは戦わない方がよろしい。時間の無駄である。ましてや相手が武道の達人だったら、余計に戦わない方がいい。おおおおお、怖い、怖いと言っていればいいのである。死にたくないということで。武道の高段者なら、それだけで犯罪のランクが上がってしまうではないか。セクハラだって、受けた方がそう感じたということで成立するのだそうな。だったら、武道の高段者ならば余計に恐怖は感じるからである。ボキは柔道4段だから該当しないだろうけどねぇ。
わははははっははははっははっはははっはははっははっっはははははっはのは。
それにしても暇な人間が増えてしまったのだなぁと慨嘆している。そんなにやることがなかったら、近所のゴミでも拾っていれば良い。小さな子どもへの教育にもなる。感謝もされる。それで良いではないか。それで。
頼まれごとも引き受けることだ。昨日佐倉でやっていたバイトは、まさに頼まれごとである。詳細は書けない。書けないが、感謝されている。これが実にタノシイのである。
帰り、佐倉駅近くのセブンイレブンで、ワンカップを一合買った。電車がくるまで一時間もあったのでちびちびと呑んでいた。美味かったなぁ。この日は雨だっが、佐倉駅近辺は降っていなかったから、ちょっとだけ歩いた。居住地に着いてからも自宅まで歩いた。結局、7240歩であった。距離にして7.6キロ。ま、これで良しとしなくちゃならない。
今朝の体重は、71.7キロ。ワンカップをいただいたわりには、増えていなかった。こんなことを気にしているんだったら、呑まなければ良いのだが。どうも弱い。武道がではない。意志が弱いのだよん。
(*^O^*)
居住地は、朝から雨である。したがって、歩きに行けない。早朝徘徊である。断念した。
断念した代わりに、どっかに行って歩いてこようっと。ジムにでも行くか。会費を払っていないんで(今月分だけ)、再開すれば良いだけだ。一ヶ月2000円もかかるが。それから、午後佐倉に行けば良い。佐倉には、バイトである。夕方4時に。こっちも楽しみである。
歩いているから、そして酒を呑んでいないから、体重が71.3キロになった。今朝のことである。体重計、そっと乗ってもデブはデブという心境がよくわかっていたのであるが、今は実に楽しみである。おかげさまにて、快調である。
このまんま余生を送っていきたい。もう送っているけど。健康なままにである。健康がなにより大事である。病気はお断りである。だって、生きていても楽しみがなくってしまうではないか。でも、なるときはなる。病気にである。そのときは、ジタバタしてもしょうがない。ドクターにすべてをお任せして、寝ているしかない。でも、あれだったなぁ。某大学大学院在籍中、3年生の時だった。ICUに入っていて、あの時ほど、ベッドに縛り付けられるのが辛いと思ったことはなかったなぁ。なにしろ時間のたつのが遅いのだ。一分が過ぎていくのがとても長いのである。周囲には死にかけている方々がいくらでもいたし。
もうあんな体験はしたくない。だから大学院も中退したのである。死生学というのを修士課程(こっちは卒業した)で学んでいたが、まさに実践だったよん。
人間はいつまでも生きているわけにはいかないというのは、アタマではわかっていた。しかし、実際に「死」を目の前につきつけられると、あわてふためいた。もう、これで死んじゃうのだと思うと、情けなかった。充実した生き方をしていなかったからである。さらに、ドクターにもなれなかったからだ。
トホホ。
「生」のことしか考えていなかったからである。しかも、「生きる力」を標榜する文科省の指導のもと、若者たちにもそういう指導をしていた。たしかに、生きる力は大事である。でも、学校教育には死の教育がない。人間には、生と死の両面があるという視点が欠落している。
塾だって、大学だって、生があるから成り立っているようなもんである。塾にいたっては、どこの高校や大学に進学させたかという視点しか無い。大学もそう。就職のことしかアタマに無い。
ボキにとっての進路?
それは実に簡単明瞭である。死である。死ぬだけである。まっしぐらに、人生の終焉を迎えるのだ。それまでどうやって生きるか。それは今のこの瞬間を大事にしていくしかないのである。
こんなダメブログなんかやっていないで、本でも読んでいたほうが良いのかな?
わははっははははっはははっはははっははあっはははっはははっはは。
BYE-BYE!
恋愛至上主義と言うか、なんでもかんでもおつきあいとか称して、結局自由恋愛の風潮になっているのではないのか。昔だったら、これって切腹モンではないのか。不義密通は死罪でもあったのではないのか。
そんなことを考えてしまった。
こんな風潮にしたのはなにかとも思った。SNS?・・・・かも知れない。見知らぬヒトとすぐ知り合いになってしまう。危険な人間かも知れないのに、つきあってしまう。ゼニが目的だったらアホである。知り合いどころか、不義密通よりも非道なことをやっていて恥じることがないからだ。
情けない世の中になったものである。
ボキだって、悪行三昧の生き方をしてきた。他人のことは非難できない。しかしである。こんな非道なことはやったことがない。男女関係なんてぇことは、そもそもボキのような顔の持ち主にはご縁がない。だからやらない。やる気もない。
愛の介在しないおつきあいというのがあるのだろうか。どうもあるらしいのだが、それが信じられないのである。妻子を捨て、あるいは夫や家庭を捨て、なんら恥じることがないというのは、愛の存在自体が無いということなのだろうか。
愛を説いたエルサレムのイエスに聞いてみたいことの一つである。もっとも彼は三十代で亡くなってしまった。経験値がないだろう。聞いても無駄かもしれないが。
空海は、このあたりを巧みに説いている。愛欲を徹底的に分析している。専門のお経もあるくらいである。ま、専門家ではないのでこれくらいにするが、なかなか興味のあることである。
もっとある。源氏物語である。光源氏のことである。色好みと言われるが、この御仁(空想の人物だけど)は、ほんとうに色好みであったのだろうか?実際は、十代前半で結婚させられて、おつきの女官にリードされて色事をやっていたのそうな。だから、ほんとうに色好みであったのかどうか、誰もわからないのだそうな。
現代の離婚や少子化というのは、一億総色好み化しているからだと思ってしまったから、こんなタイトルで打鍵し始めたのである。
芸能人の話題にも事欠かないではないか。離婚とか、再婚とかである。もっとある。子殺しである。愛欲のために、子どもが邪魔になって殺してしまう。虐待もそうだ。
子どもに愛情を感じないからである。情けない世になったもんだ。ジジイになったから、余計にこのことは声を大にして言いたいのである。ジジイからの警告である。
昨夜、塾で小学校の生徒に算数を教えていた。ちょっと騒いでいたので、「もう・・・嫌いになっちゃうよん」と笑いながら言った。そしたら「センセ、ボクのことスキなんか」と言ってきた。「そうだよ」と言った。お互いニコニコしながら、別れた。時間がきたからである。
そうなのである。すべての行動は、色好みではない「愛ある行動」からきているのだと思った次第である。
今朝、4時30分から歩いていて、ポケットにある付箋にメモしたからこんなことを打鍵してみた。
わははっはははっはははははははははっははっははははっはははっはは。
BYE-BYE!