午前中は仕事がなかったのでタリーズに行って宮部みゆきをしばらく読む。なんとすばらしい夏休みだろう。小一時間と思ったが、どうにもやめられず、けっこういた。けっこういたけど、最後あと少しのところで、漠然とした恐怖感におそわれ、読むのをやめた。『ソロモンの偽証』。全部で3巻出るという。1巻の半分ほど読んで、年末のミステリーランキングは全部ぶっちりぎで一位になる作品だとわかった。「今年の~」レベルではない。「ここ10年の」にして、しかも「ミステリーの」というカテゴリーをはずしても、そう言えるかもしれない。『吉里吉里人』『レディージョーカー』『1Q84』などと並び、エンタメ系とか純文学系とか関係なく大きな現代小説だ。この先どんな世界がくりひろげられるのか、こわいくらいだ。
あらくなった息を落ち着かせて学校にもどり、今日はアンサンブル中心の練習。
あと明後日出る「進路だより」の原稿も書けてよかった。
「進路だより」原稿
文系、理系のどちらを選ぶか、志望校をどこに設定して勉強していくのか、大学で何を学びたいのか、将来どんな人生を送りたいと思いながら生きていくのか。
自分の人生全体につながるこのような問題を、2学期は身近なものとして考えることになる。
いまの皆さんに大事なのは、とにかく高い目標を設定してみることだろう。
「自分は何をやりたいのか。」「自分は何をやるべきだと思っているのか。」「自分はどんな人になりたいのか。」これらの三つの文の実質的意味は同じだ。自分とは「志」のことである。
明治時代の文豪幸田露伴はこう述べる。
~ いわゆる志を立てるということは、あるものに向かって心の方向を確定することで、いいかえれば、心に何を持つかということだ。だからこそ、心にもつものが最高最善のものでなければならないのは自然の道理である。それゆえに、志を立てるときは、その志が堅固であることを願う前に、まず志が高いものであることを願うべきである。そして志が立ったあとで、それを堅固なものにしたいと考えるべきだ。(渡辺昇一編『幸田露伴「努力論」を読む-人生報われる生き方』三笠書房) ~
まず目標を「持つ」こと。そして、そしてその目標はできるだけ「高く持つ」ことが大切だと言う。
なぜ高望みすべきなの。
目標を持つときに、人は現在の自分を基準に考える。しかし、人は成長する。
レベルが1ステージあがると、それまで見えなかったものが見えてくる。
今の自分にとってはとんでもない高望みだった目標が、一年後の自分には手の届く範囲になっていることはよくあるものだ。
~ 七、八歳のころ持ち上げられなかった石でも、大人になれば簡単に持ち上げられる。七、八歳の自分が、大人になった自分に及ばないのは当然のことだ。学問修業中の青年時代の自分が、やや学問の積み重ねができた壮年の自分に比べて劣っているのは明白なことである。ならば、現在の自分を基準にして将来の自分を決めつけてしまうような考えを抱くのは、なんとも愚かしいことである。それよりも、今はただ当面の学問に真剣に取り組むのみだ。何を苦しんで自らを小さくし卑しめ、限定し狭める必要がどこにあろうか。(前掲書) ~
先日卒業していって先輩たちの、一年生のときの成績をふりかえってみて驚くのは、2年間での伸びしろの大きさだ。
小学校、中学校と勉強に勉強を重ね、努力の限りをつくして、持てる能力のすべてをふりしぼってこの川東に入学できたという人は、少ないのではないか。
むしろ、それほどちゃんと勉強はしていない、勉強のやり方を知らないままなんとなくここにいるという人の方が多いのではないか。
みなさんの日頃の勉強ぶりを見ていると、そう感じてしまう。だとすると、ほとんどの人は、とんでもない伸びしろを持っていることになる。それを無駄にしてはいけないと思う。