「黄昏(たそがれ)」時の語源は「誰そ彼(たそかれ)」時。そこにいる人が誰なのか判別がつくなくなっていく夕暮れ時、思わず「誰そ彼?」と尋ねてしまう。「彼は誰(かはたれ)」時とも言う … 。
そんな話を古典の先生がしている授業風景。
家のテレビでは、千年ぶりに地球に接近している彗星のニュース。
こんなシーンを観て、つい枕草子を思い起こすおれって、ほんとに教養があるなあ。
清少納言が書いた「よばひ星」は「プレアデス星団」を指す … という話は、実は池内了「新しい博物学を」という文章で知った。中学校の教科書のいくつかに載っている文章だから、本校を受験しようかと考えるぐらいの生徒さんなら、この映画を見始めればすぐに想起することだろう。
基本的にアニメは観ないので、「今の」なのか、「日本の」なのか、「この監督さんの」なのかはわからないが、あまりにも緻密で美しい映像にすぐのめり込まされる。こんなクオリティに達していると予想もしてなかった。
ほのぼのした「入れ替わりもの」系だろうなあと、軽い気持ちで見始めたから、びっくりした。
われわれ世代だと「入れ替わり」映画のそれは大林監督の「転校生」につきる。
同時に「君の名は」というタイトルは、昭和初期の名作ドラマも当然思い起こさせる。観たこと無いけど。
監督さんはもちろんそれもふまえている。
戦後すぐの数寄屋橋を舞台にして「すれ違い」をくりかえす男女の姿。
生まれたときから携帯電話があるのが普通の若い人たちには(うわ、このじじくさい言い方)、待ち合わせで「すれ違い」が起きるなんて想像できないだろう。
でもすれ違うのだ。そして出会う。
すぐにのめり込み、途中から壮大なSF作品であることに気づいた。ほのぼのどころではない。
「入れ替わり」がなぜおこるのか。「新しい博物学を」が提示した、文系・理系の枠をとりはらった新しい学問があれば、謎は解明されるかもしれない。彗星が最接近した「かはたれどき」には何でも起こりうる。
そしてその壮大なSFファンタジーが、誰の日常にも起こりうる奇跡に結び付いていることに気づく最後の場面。
涙をこらえることはできない。生きててよかった、これからも生きていけるかなと思えるくらいに。
今年観た、いやぁ、ここ数年って言ってもいいかな、最高の作品だ。