水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「舞姫」への道

2017年05月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

 来月、「舞姫」で研究授業を行う。
 過去の自分が何を考えていたかをふまえて、さらなる高みをめざさねば。

 

 「舞姫」を「妊娠小説」として読む


 二学期、高校3年生のクラスで森鷗外の「舞姫」を読む。
 星の数ほどもある日本の文学作品の中で、「羅生門」、「山月記」、そしてこの「舞姫」は、ほぼ全ての教科書に全文が掲載され続けるという厚遇を得ている作品である。
 なぜか。簡単なことで、高校の国語教師が載せてほしいと考えているからだ。教科書会社は当然ユーザーの意見にしたがって教材を決めている。たまにこの教材をはずした教科書を作ってみるけど売れない、という話を営業の方から聞いたことがある。
 では、なぜ、これらの作品が高校教師の心をつかんでいるのか。
 三作品に共通するのは、主人公がエリートであるということだ。
 「羅生門」の主人公(下人)も、一見エリートではないが、その発想はエリートである。ふつうに生活力のある人間だったら、飢え死にしそうなときに、盗人になるかどうかをあんなに悩むはずがない。
 「山月記」は典型的な文学エリートの挫折だし、「舞姫」は名をとるか恋をとるかに悩むエリートの話。ちょっと屈折したエリートの話というのは、高校の国語の先生の自意識を微妙にくすぐるのだ。
 小学校や中学校の先生より国語に対しての専門性をもっていると自分で考えている人たち(たいしたことないのに)。ほんとは文学的会話したいけど、生徒は寝るだけあばれてるだけという現実の中で、苦悩する人たち。そこそこの偏差値の大学はでているけど、研究者や文学関係者になるほどの能力までは持ちあわせなかった人たち。政治や経済の場で活躍できるほどのたくましさは持っていないけれど自意識だけはかなり高い人たち。
 わたし自身がそうだ。
 とくに、生徒指導につかれているとき、おれはこんなところでこんなことをすべき人間ではない、なんて思いがわき起こってきちゃう時が危険だ。
 授業中の喧噪の中で、おれの高い文学的才能がこんなヤツらにわかってたまるか、などと思い始めると、思わず教室を叫びながら飛び出し、いつのまにか両手で地面をつかんで走っていることが年に二回はある。
 そういう似非エリートたちがそのままの心性で読解すると、この「舞姫」からは「近代的自我の覚醒と挫折」なんて主題がうかびあがってくる。
 たとえば「読み研」の『「舞姫」の読み方指導』(明治図書)では「舞姫」の主題をこう述べる。
「近代社会において、自らの主体性を確立しえないことによって引き起こされる愛の悲劇」。
 ちがうでしょ。
 冷静に事実関係を考えてみよう。
「主体性を確立しえない」からおこった「愛の悲劇」ではない。
 避妊もせずいきおいでヤっちゃったからおこった「愛の悲劇」なのだ。
 飾り気なしで中身を要約すれば「エリートが留学先で若い女の子をはらませて捨てる」話である。
 2学期は、似非文学エリートの虚飾をとりさって、この「舞姫」に向き合ってみたい。
 有名作品を名作としてあがめたてまつるのではなく、野口先生のおっしゃる「本音、実感、マイハート」で読む姿勢を持つのである。
 そんなとき、「舞姫」読解の一つの鍵となるのが「妊娠小説」という概念だ。
 斉藤美奈子氏は言う。


 ~ エリスが心を病んだのは、通常「太田」の裏切りのせい、ということになっている。だが、〈襁褓〉をまとう、というテキストの指示からいって、要素として大きいのはむしろ「妊娠」だと考えた方がすっきりと筋が通る。
 だいたい、男に捨てられただけで正気をうしなったりするだろうか? 妊娠して、さらに捨てられるから、ショックなのであろう。妊娠さえしなかったら、エリスは心を病む必要もなかったかもしれないし、太田も手記を書くほどの悔恨にはさいなまれず、「甘酸っぱい青春の思い出」の範囲で双方終わったかもしれない。で、そうなったら、まさに「西洋の女をモノにしたエリート商社マンの武勇伝(俺もむこうで……)」でおしまいなのだ。
 『舞姫』にとって、「妊娠」というプロットはそのくらい重要な意味を持っている。妊娠させた男の苦悩と、妊娠して捨てられた女の悲劇。それが『舞姫』の真実というべきであり、「妊娠小説の父」として、後生、太田豊太郎の末裔をごっそり輩出することになる。 (斉藤美奈子『妊娠小説』ちくま文庫) ~


 「男に捨てられただけで正気をうしな」わない、という斉藤氏の指摘はそのとおりだと思う。
 あの結末は不自然だ。ほんとうに発狂するほどの状態だったのなら、周囲の誰かが気づかないはずはない。エリスにしたって、ほんとに豊太郎がドイツに居続けるのだろうか、という疑問はあったはずだ。
 豊太郎の翻意を聞いたとき、「やっぱり」と思う心もどこかにあるべきなのが、あの設定におかれた普通の女性だ。そうしたら、発狂してるひまなんかなくて、生まれてくる子供のためになんとかしなくちゃと強くなるべきなのだ。
 もっと言えば、豊太郎にも、しょせん相手は踊子、自分はいつか日本に帰ってお国のために働くエリートだ、というおごりがまったくなかったとは言えまい。たとえば、豊太郎が日本国内で、相手は華族のお嬢さんだったりしたら、こんないきおいでヤっちゃうだろうか。「舞姫」に対する差別的な意識は潜在的にあったはずだ。
 避妊の方法さえ知らないお坊ちゃんエリートが、遠い異国の空の下、貧しくて精神の弱い少女にひかれてヤっちゃう。
 悲劇にならないはずがない。そんな二人に育てた親が悪い。
 その程度の話なのだから、豊太郎のとった行動をどう思うか、なんて課題を出して話し合わせるのは無意味というか、国語の授業ではない。
 この話が、なぜかくも優雅に文学作品たりえているか、表現を検討するのが国語だ。
 となると、必要なのは自己弁護の文体としての「舞姫」の分析である。
 香西先生が、「山月記」の李徴の弁明を、否定詞の多い文体という観点で分析していらっしゃった(『修辞的思考』明治図書)。
 「舞姫」にも同じような表現が見られる。本当は「フザけんなよ」というレベルの自己弁護なのに、そう感じさせない修辞である。
「妊娠」という素材、自己弁護の修辞、この二つが今回の「舞姫」の目玉である。

 

    ちょっと力入りすぎだな。まず普通に「近代的自我の目覚めと挫折」を読み取らないと。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする