学年だより「メッセージ(2)」
ある日、地球上の各地に謎の巨大な飛行物体が現れる。「彼ら」がどこから来たのか、何のために訪れたのかもわからない。アメリカでは、「彼ら」とコンタクトをとり、彼らがもっているであろう「言語」を解読するため、言語学者のルイーズが現場におもむく。
アーモンド型(柿の種にも見える)の巨大な宇宙船、その内部には七本足の生命体が2体。
高度な知性を有していることはまちがいない彼らが、イカ墨のような物体を吹き出して書道のような形象をつくる。
その円環状の形象が、一つの内容を表す表意文字に相当することをルイーズはつきとめた。
なぜ円環状なのか。その一文には始まりも終わりもないからだ。
それは、彼らの持つ時間感覚に、始まりも終わりもないことを表していた。
彼らとコミュニケーションをとりつづけるうちに、その円環的な時間感覚がルイーズに身にももたらされる。と同時に、病のため若くして生命を断たれた娘の「記憶」がよみがえってくる。
意思疎通よりも排除を求める人たちも多いなか、ルイーズはあくまで根気強くコンタクトをとり続ける。それは母性をもち、娘を失った悲しみを心にかかえる彼女だからこそ可能だった。
最終的には、彼女の「記憶」が宇宙船を攻撃しようとする中国軍をとめ、地球を救うことになる。
亡くなった娘の思い出が、実は「未来の記憶」であることに気づかされたとき、映画を観ている私たちも、作品の描く円環時間のなかに吸い込まれていく。
作品の冒頭で描かれた娘の死は、終わりではなく物語の始まりだったのだ。
~ これから先、自分に起こること、世界がどうなるのかを知ってしまったら、それは果たして幸せなことなのだろうか。まして愛にまつわることはなおさらだ。幸せなことだけ知るのであれば、いいけれど、愛する恋人、愛する家族との悲しい未来は事前に知りたくはない。この『メッセージ』のラストで明かされる事実のように。でも主人公のルイーズは、どんな未来が待っていたとしても、今その瞬間の愛を受け容れて生きていこうとする。
「自分がいつどうやって死ぬかわかったとしたらどうなるか。人生、愛、家族、友人、社会との関係はどうなるのか。死、そして命の性質やその機微と親密な関係にあることで僕らはより謙虚になることができる」(ドゥニ・ヴィルヌーブ監督)
たしかにふつうに生活していると、時間はずっと続いていくもので、当たり前のように毎日がやってくると思っている。でもこの映画を観ると、ルイーズの立場になってみると、あのラストシーンの先の彼女の人生は、娘との人生も、夫との人生も、それぞれ別れの日を前提に生きていくことになる。 (新谷里映「愛の物語」映画『メッセージ パンフレット』より)~
人は、未来のことなどわからないと言いながらも、いつか必ず死が訪れることだけは知っている。 誰もが「死」という最終的な未来を前提にして生きているのだ。死は身体の物理的な「おわり」でありながら、精神的には私たちの生を規定する「はじまり」とも言える。
私たちは自らの意志で「おわり」を「はじまり」にして、生きていくしかないのだ。ルイーズが、「未来の記憶」を持ちながら、娘を生み、愛することを選択したように。