シンプルな構造としては、「ボーイミーツガール」であり「行って帰る」物語だ。
「誰がどうした話」か。
それは「太田豊太郎が、独逸に行き、舞姫と恋仲になり、妊娠させ、発狂させて、棄てて帰国する話」という身も蓋もない話になってしまう。
ただし今回、「舞姫と恋仲に~」という素材そのものが何を象徴するのかを、漠然とつかむことができた。
エリスは西洋文化の象徴なのだ。
日本人が突然接することになり、その美しさに頭がくらくらになってしまった西洋文化そのもの。
関川夏央はこう述べる。
~ 近代以降、現在に至るまでをつらぬいて日本に恩恵を与え、同時に悩み苦しませてきたのは西欧文明であり、西欧文明とのつきあいのきしみである。ありていにいえば、白人が東アジア人より美しいと見えたときに、日本の、あるいはアジアの苦悩ははじまった。そしてこの悩み、あるいはたんの居心地の悪さは、「戦後」からこちらに生きるわたしのなかにもあって、いまだに未整理である。(『坊っちゃんの時代第二部 秋の舞姫』双葉社) ~
西洋のシステムを移入したものの、精神面では前近代性をそのままにしていることに発する(日本の)近代人の苦悩は、今も変わらず存在する。
音楽、踊り、絵画、いろんな芸術ジャンルを思い描いてみても、関川氏の感じる「居心地の悪さ」を感じることは多いだろう。自分ら素人は、まあそんなものだなあ、やっぱ西洋人には勝てないなとか適当なことを言ってればいいけど、人生をかけて取り組んでいる人にとっては切実な問題なのだろうと思う。
豊太郎が思わず目がくらみ、それでいて日本に連れて帰ることができなかったエリスは、まさに西洋そのものだった。
豊太郎は、エリスという「宝物」を持ち帰ることはできなかったが、別のものを手に入れた。
「エリスは持ち帰れないという現実を知る」という「宝」だ。
これを成長という。
主人公が、「行って帰る」物語。
主人公が、自分の所属する共同体を出て、事件に遭遇し、なんらかの「宝」を手にして帰ってくる物語。
「舞姫」は、あまりにも基本的な構造からなる物語だが、まさに近代小説の嚆矢(こうし:物事のはじめ:ちょっとカッコつけてみた)と言える作品だった。やってよかった。いまも自分の読解力が上がり続けてる。