水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

才能が無くてよかった(2)

2019年04月27日 | 学年だよりなど
  学年だより「才能が無くてよかった(2)」


 書の世界で難しいとされる「しんにょうの払い」を、それほど練習しないで書けてしまう人がいる。できてしまうので、上手く書けたところで大きな喜びは感じない


 ~ それに引き換え、私のように才能に恵まれない人間は、苦労に苦労を重ねて一つ一つの字形を覚え、何千回何万回と練習して漸く綺麗なしんにょうが書けるようになります。
 苦労した分、それができた時は思わず叫び声をあげてしまうほど嬉しいものです。
 そして、その喜びがあるからこそ、次の喜びを求めて更なる努力を重ねることに繋がるわけです。才能のある人にとっても多少の「できる喜び」はあるにしても、才能のない人間が時間と労力を掛けて手に入れた「できるようになった喜び」とはその喜びの質と深さは大きく異なるものに違いありません。
 喜びの集積が幸福というものであるならば、才能のない人間のほうが幸福により近づくことができると言ってもよいかもしれません。 ~


 才能のない人間は、努力をするための時間が不可欠だ。結果を出したいと真摯に願うほど、無意識のうちに健康への気遣いも生まれる。
 天才、異才とよばれ一世を風靡した人が、生き急いだかのように早逝するのとは対照的だ。


 ~ 以上の私の所見を検証する意味で、私の前回の一作献上の「令和」の字を見ていただきたいと思います。
 「令」と「和」併せて13画ありますが、そのうちの一画として私にとって簡単な線はありませんでした。何年何十年もの時間を掛けて漸く書けるようになった線ばかりです。その一画一画に「引けるようになるまでの苦しみ」と「引けるようになった時の喜び」が刻まれている、と言っても過言ではありません。
 そして、決して負け惜しみでも謙遜でもなく「才能が無くてよかった」という言葉が、私にとって真実であることもお分かり頂けるのではないかと思うのです。 (水島二圭「一芸百芸」~メルマガ「勝谷誠彦たちの××日記」より~) ~


 みなさんは、才能にあふれていますか? 
 あると実感する人は、それにおごることなく、真摯に伸ばしていこう。
 ない人たち、おめでとう! 君たちは、人生の喜びを手にすることができるのだ。
コメント
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