六段落
私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せと言ったほうがまだ適当かもしれません。そのときの私はたといKをだまし打ちにしてもかまわないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もしだれか私のそばへ来て、おまえは卑怯だと一言ささやいてくれる者があったなら、私はその瞬間に、はっと我にたち返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるにはあまりに正直でした。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、〈 そこ 〉に敬意を払うことを忘れて、かえってそこにつけ込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私のほうを見ました。今度は私のほうで自然と足を止めました。するとKも止まりました。私はそのときやっとKの目を真向きに見ることができたのです。Kは私より背の高い男でしたから、私はいきおい彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話はやめよう。」と彼が言いました。彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっとあいさつができなかったのです。するとKは、「やめてくれ。」と今度は頼むように言い直しました。私はそのとき彼に向かって〈 残酷な答えを与えた 〉のです。狼がすきをみて羊の咽喉笛へ食らいつくように。
「やめてくれって、僕が言い出したことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。」
私がこう言ったとき、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話すとおりすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられないたちだったのです。私は彼の様子を見て〈 ようやく安心しました 〉。すると彼は卒然「覚悟?」とききました。そうして私がまだなんとも答えない先に「覚悟、――覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿のほうに足を向けました。わりあいに風のない暖かな日でしたけれども、なにしろ冬のことですから、公園の中は寂しいものでした。ことに〈 霜に打たれて蒼みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました 〉。我々は夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの丘へ上るべく小石川の谷へ降りたのです。私はそのころになって、ようやく外套の下に体の温かみを感じ出したくらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り道にはほとんど口をききませんでした。うちへ帰って食卓に向かったとき、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにと言って驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろくなあいさつはしませんでした。それから飯を飲み込むようにかき込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の部屋へ引き取りました。
卒然 … とつぜん
外套 … コート
Q33「そこ」とは何か。本文の言葉を用いて20字で記せ。
A33 あまりに正直で、単純で、善良なKの人格。
Q34「残酷な答えを与えた」とはどういうことか。(60字以内)
A34 恋愛問題で行き詰まり悲痛な面持ちのKに対して、
追い打ちをかけるように日頃の主張との矛盾を指摘し
その態度を批判したこと。
「ようやく安心しました」について
Q35 なぜか。(50字以内)
A35 矛盾を指摘した私の言葉に反論もせず萎縮してしまったKを見て、
自分が優位に立ったことを感じたから。
Q36 私の中にはどんな不安があったのか、本文の言葉を用いて説明せよ。
A36 Kが実際的な方面にすすむことによって私の利害と衝突すること。
Q37「霜に打たれて蒼みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました」という描写はどのような働きをもっているか。
A37 自分がしたことに対する無意識の罪の意識を表し、二人にとっての暗い将来を暗示する。
行 Kの出方を待つ 待ち伏せ・だましうち
↓
事 悲痛な様子を発見する 羊のよう
↓
心 だめ押しのチャンス!
↓
行 「残酷な答え」を与える 狼のように
↓
事 萎縮したKを見る
↓
心 安心
私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せと言ったほうがまだ適当かもしれません。そのときの私はたといKをだまし打ちにしてもかまわないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もしだれか私のそばへ来て、おまえは卑怯だと一言ささやいてくれる者があったなら、私はその瞬間に、はっと我にたち返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるにはあまりに正直でした。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、〈 そこ 〉に敬意を払うことを忘れて、かえってそこにつけ込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私のほうを見ました。今度は私のほうで自然と足を止めました。するとKも止まりました。私はそのときやっとKの目を真向きに見ることができたのです。Kは私より背の高い男でしたから、私はいきおい彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話はやめよう。」と彼が言いました。彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっとあいさつができなかったのです。するとKは、「やめてくれ。」と今度は頼むように言い直しました。私はそのとき彼に向かって〈 残酷な答えを与えた 〉のです。狼がすきをみて羊の咽喉笛へ食らいつくように。
「やめてくれって、僕が言い出したことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。」
私がこう言ったとき、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話すとおりすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられないたちだったのです。私は彼の様子を見て〈 ようやく安心しました 〉。すると彼は卒然「覚悟?」とききました。そうして私がまだなんとも答えない先に「覚悟、――覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿のほうに足を向けました。わりあいに風のない暖かな日でしたけれども、なにしろ冬のことですから、公園の中は寂しいものでした。ことに〈 霜に打たれて蒼みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました 〉。我々は夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの丘へ上るべく小石川の谷へ降りたのです。私はそのころになって、ようやく外套の下に体の温かみを感じ出したくらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り道にはほとんど口をききませんでした。うちへ帰って食卓に向かったとき、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにと言って驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろくなあいさつはしませんでした。それから飯を飲み込むようにかき込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の部屋へ引き取りました。
卒然 … とつぜん
外套 … コート
Q33「そこ」とは何か。本文の言葉を用いて20字で記せ。
A33 あまりに正直で、単純で、善良なKの人格。
Q34「残酷な答えを与えた」とはどういうことか。(60字以内)
A34 恋愛問題で行き詰まり悲痛な面持ちのKに対して、
追い打ちをかけるように日頃の主張との矛盾を指摘し
その態度を批判したこと。
「ようやく安心しました」について
Q35 なぜか。(50字以内)
A35 矛盾を指摘した私の言葉に反論もせず萎縮してしまったKを見て、
自分が優位に立ったことを感じたから。
Q36 私の中にはどんな不安があったのか、本文の言葉を用いて説明せよ。
A36 Kが実際的な方面にすすむことによって私の利害と衝突すること。
Q37「霜に打たれて蒼みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました」という描写はどのような働きをもっているか。
A37 自分がしたことに対する無意識の罪の意識を表し、二人にとっての暗い将来を暗示する。
行 Kの出方を待つ 待ち伏せ・だましうち
↓
事 悲痛な様子を発見する 羊のよう
↓
心 だめ押しのチャンス!
↓
行 「残酷な答え」を与える 狼のように
↓
事 萎縮したKを見る
↓
心 安心