2学年だより「謙虚力」
落ち着いて勉強できてますか? 昨年の今頃に比べると、少し大人になってきたように見える。
年相応に成長できているかどうかが表れやすいのは、声の大きさだ。
イベントで盛り上がるとき、試合で気合いを入れる時に、おなかから声を出すのはいいが、日常の公共の場所で大声で話す人は、通常「知性が低い」と見なされる。
先週の「あちこちオードリー」で、「芸能界を生きやすくする教訓」という話をしていた。
若林正恭氏の「メイク室で声の大きいタレントさんとは距離をおく」という発言に、ドランクドラゴンの塚地氏や鬼越トマホークがうなづく。
「メイク室で大声の人って、いつのまにか消えてしまって、あとで暴露本出すタイプだからね。気をつけないと」「声の大きさは、自己顕示欲の強さだからね。」と春日。
「公共の場で声が大きい人はバカだから」「まわりが見えてないってことだね」
たとえば電車の中を思い浮かべてみると、なるほどと思える経験があるのではないだろうか。
「逆に大御所は、驚くほど声が小さい」という話もなるほどと思った。
自己顕示する必要などないし、一芸に秀でた方は、「芸」の前に自分の存在は取るに足りないものだとわかっている。
学問の世界でも、すぐれた研究者はおしなべて謙虚で偉そうにしないが、何の専門家かわからない人にかぎって、テレビに出て何か大声で語っている。
学べば学ぶほど、自分の小ささがわかり、「知」の前に謙虚にならざるを得ないのだ。
スポーツの世界でも、同じ例にことかかない。
~ これもNジムに入会してから知ったことだが、一線を越えたトレーニー(トレーニングに励む人)にはびっくりするほど謙虚な人間が多い。しかし、こんな競技一年目の私にも、それは頷(うなず)ける話だった。筋トレをすると、自分の大したことなさが、文字通り身を以てわかるのだ。肩で息をしながら、ああ、自分は、このたった三枚のプレートに負ける存在なのだと。そうした敗北感に日常的に接しているからこそ、何やら悟りに至った禅僧のような、一皮剥けた謙虚さが身についてしまうのだろう。人格者化するトレーニーは後を絶たない。
また、これは私の勝手な印象に過ぎないのかもしれないが、一線を越えたトレーニーには哲学者っぼくなる傾向があった。トレーニーというのは誰にも頼まれていないのに余人のあずかり知らぬ目標に向かい、日々の鍛錬に励んでいる。ボデイ・ビルのための筋トレはしんどいが、九十九パーセントのトレーニーにとっては、別に儲かるわけでもない行為だ。運動が健康にいいのは確かだが、ボディ・ビルのための筋トレはもはや健康のためではないし、むしろ遣り過ぎると健康を損ねる可能性もある。それをあえてやろうというのだから、トレーニーには相応の動機づけ、もとい哲学が必要になってくる。 (石田夏穂『我が友、スミス』集英社)~
村田諒太選手と戦ったゴロフキン選手も、試合中も含め相手への敬意を持ち続けていた。
落ち着いて勉強できてますか? 昨年の今頃に比べると、少し大人になってきたように見える。
年相応に成長できているかどうかが表れやすいのは、声の大きさだ。
イベントで盛り上がるとき、試合で気合いを入れる時に、おなかから声を出すのはいいが、日常の公共の場所で大声で話す人は、通常「知性が低い」と見なされる。
先週の「あちこちオードリー」で、「芸能界を生きやすくする教訓」という話をしていた。
若林正恭氏の「メイク室で声の大きいタレントさんとは距離をおく」という発言に、ドランクドラゴンの塚地氏や鬼越トマホークがうなづく。
「メイク室で大声の人って、いつのまにか消えてしまって、あとで暴露本出すタイプだからね。気をつけないと」「声の大きさは、自己顕示欲の強さだからね。」と春日。
「公共の場で声が大きい人はバカだから」「まわりが見えてないってことだね」
たとえば電車の中を思い浮かべてみると、なるほどと思える経験があるのではないだろうか。
「逆に大御所は、驚くほど声が小さい」という話もなるほどと思った。
自己顕示する必要などないし、一芸に秀でた方は、「芸」の前に自分の存在は取るに足りないものだとわかっている。
学問の世界でも、すぐれた研究者はおしなべて謙虚で偉そうにしないが、何の専門家かわからない人にかぎって、テレビに出て何か大声で語っている。
学べば学ぶほど、自分の小ささがわかり、「知」の前に謙虚にならざるを得ないのだ。
スポーツの世界でも、同じ例にことかかない。
~ これもNジムに入会してから知ったことだが、一線を越えたトレーニー(トレーニングに励む人)にはびっくりするほど謙虚な人間が多い。しかし、こんな競技一年目の私にも、それは頷(うなず)ける話だった。筋トレをすると、自分の大したことなさが、文字通り身を以てわかるのだ。肩で息をしながら、ああ、自分は、このたった三枚のプレートに負ける存在なのだと。そうした敗北感に日常的に接しているからこそ、何やら悟りに至った禅僧のような、一皮剥けた謙虚さが身についてしまうのだろう。人格者化するトレーニーは後を絶たない。
また、これは私の勝手な印象に過ぎないのかもしれないが、一線を越えたトレーニーには哲学者っぼくなる傾向があった。トレーニーというのは誰にも頼まれていないのに余人のあずかり知らぬ目標に向かい、日々の鍛錬に励んでいる。ボデイ・ビルのための筋トレはしんどいが、九十九パーセントのトレーニーにとっては、別に儲かるわけでもない行為だ。運動が健康にいいのは確かだが、ボディ・ビルのための筋トレはもはや健康のためではないし、むしろ遣り過ぎると健康を損ねる可能性もある。それをあえてやろうというのだから、トレーニーには相応の動機づけ、もとい哲学が必要になってくる。 (石田夏穂『我が友、スミス』集英社)~
村田諒太選手と戦ったゴロフキン選手も、試合中も含め相手への敬意を持ち続けていた。