朝一番ででかけた野球応援だが、2回戦も無事勝利できた。
学校にもどって、すこし合奏。まだまだやることはたくさんあるが、少しずつつぶしていけてる感もある。
問題なのは、合奏している間は他の仕事はすすんでないということであって、夏休みの宿題プリントや夏期講習のテキストにてがついてない。
明日配布の学年だよりだけはささっと書いた。
その後、ある先生から頼まれた雑誌掲載用の文章を書く。
ボツになるかもしれないので、ここにはっておきます。
高校生にすすめたい本
~ 村上春樹『1Q84 上・下』新潮社刊 ~
国語の教員でありながら身も蓋もない言い方になるが、本を読みたくない人は、無理に読む必要はないと思う。
国語の成績をあげる手段として読書を勧める方もいないではないが、時間のむだだ。
その読書の対象が文学作品であるならなおさらだ。小説を読んで国語の成績があがることはないことだけは、自信をもって言っておきたい。
文学作品は、読みたい人が読めばいい。読まずにすませられる人は読まなくていい。
読まずに一生を終えられるなら、それは幸せな人生なのだ。
ただし、人生何があるかわからない。文学とは無縁の人生を過ごしていても、突然文学にすがらねばならない事態になるやもしれぬ。
そのときのために、若いうちに教科書程度の文学作品には触れておいても損はない。
ただ、国語の教科書で読むことになるのは、こんな話だ。
・飢え死にしないために老婆の着物を強奪する男の話。(「羅生門」)
・好きな女性を手に入れるために友人をだしぬき自殺させる男の話。(「こころ」)
・留学先で異国の娘を孕ませ捨てて帰ってくる男の話。(「舞姫」)
こんな主人公達に共感したり感動したりする必要は全くない。
なるほど、文学というのは、どっちかといえばだめな人間を描いたものなのかと知っていればいい。
高校時代に、「だめ」な方に傾いてしまうことはもちろんあるだろう。
そんなときだけ、小説を読んでみるといいかもしれない。
そのときはじめて、「だめ」なあなたに、作者がメッセージを届けようとしていることに気づくだろう。
メッセージが届かないなら、あなたの「だめ」度は低いので、安心して社会復帰すべきだ。
私(筆者)も、最近この作品からメッセージをもらった。自分の「だめさ」には自信があったが、案の定、数時間にわたって作者からの深いメッセージを送り続けられた。
それが何であるかは、ここでは書かない。作品の本当の意味はこの私にしかわからないからだ。作者村上春樹氏の思いは、誰よりもこの私が感じ取った。
そして、私と同じように感じている人が、おそらく100万人以上いる。
今後、世界各国で翻訳され、桁違いの読者を得ることになるだろうが、本当に意味を読み取れたのは、私だけだ、とこれから世界中の人が思うようになる。おそろしい作品だ。
主人公の一人、「天吾」という青年は、予備校で数学を教えながら、家では小説を書いている。
彼が小学生時代からのめりこんできた数学は、その明快さと絶対的な自由さゆえに、彼には必要だった。父親との軋轢から逃避するために必要な世界だった。
しかし、その世界から現実にもどったとき、まわりの現実は何も好転していないことに気づくようになり、しだいに小説の世界に惹かれていく。天吾はこう考える。
小説の世界から現実に戻ってきたときは、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう? 彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(『1Q84 book1』318頁)
すぐれた作品は、解釈に幅があり、100万人の読者に100万通りの読み方を与えてくれる。
人がこの世で生きていくうえで、思うようにならないことに出会ったとき、ときにそれを慰めてくれ、ときには逆に傷口をえぐるような力ももち、ときには一つの答えを提示してくれることもあれば、ただ深い悲しみを共有してくれたりする。
人生を思うように生きている人には文学は必要ないというのは、そういう意味でだ。
第一章、もう一人の主人公の「青豆」という女性が、渋滞の首都高でタクシーを降りる。ある任務を果たすために、渋滞が解消するのを待っている時間はないからだ。
コートを脱ぎ、ハイヒールをて手にもち、ミニスカートで非常階段を下りようとする。
青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー・ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。(『1Q84 book1』27頁)
このシーンで、すでに本を閉じられなくなったあなたは、正真正銘の「だめ」人間だ。仲間だ。連絡してこなくていいけど、心の連帯はしよう。息をひそめている仲間が実は相当いる。
学校にもどって、すこし合奏。まだまだやることはたくさんあるが、少しずつつぶしていけてる感もある。
問題なのは、合奏している間は他の仕事はすすんでないということであって、夏休みの宿題プリントや夏期講習のテキストにてがついてない。
明日配布の学年だよりだけはささっと書いた。
その後、ある先生から頼まれた雑誌掲載用の文章を書く。
ボツになるかもしれないので、ここにはっておきます。
高校生にすすめたい本
~ 村上春樹『1Q84 上・下』新潮社刊 ~
国語の教員でありながら身も蓋もない言い方になるが、本を読みたくない人は、無理に読む必要はないと思う。
国語の成績をあげる手段として読書を勧める方もいないではないが、時間のむだだ。
その読書の対象が文学作品であるならなおさらだ。小説を読んで国語の成績があがることはないことだけは、自信をもって言っておきたい。
文学作品は、読みたい人が読めばいい。読まずにすませられる人は読まなくていい。
読まずに一生を終えられるなら、それは幸せな人生なのだ。
ただし、人生何があるかわからない。文学とは無縁の人生を過ごしていても、突然文学にすがらねばならない事態になるやもしれぬ。
そのときのために、若いうちに教科書程度の文学作品には触れておいても損はない。
ただ、国語の教科書で読むことになるのは、こんな話だ。
・飢え死にしないために老婆の着物を強奪する男の話。(「羅生門」)
・好きな女性を手に入れるために友人をだしぬき自殺させる男の話。(「こころ」)
・留学先で異国の娘を孕ませ捨てて帰ってくる男の話。(「舞姫」)
こんな主人公達に共感したり感動したりする必要は全くない。
なるほど、文学というのは、どっちかといえばだめな人間を描いたものなのかと知っていればいい。
高校時代に、「だめ」な方に傾いてしまうことはもちろんあるだろう。
そんなときだけ、小説を読んでみるといいかもしれない。
そのときはじめて、「だめ」なあなたに、作者がメッセージを届けようとしていることに気づくだろう。
メッセージが届かないなら、あなたの「だめ」度は低いので、安心して社会復帰すべきだ。
私(筆者)も、最近この作品からメッセージをもらった。自分の「だめさ」には自信があったが、案の定、数時間にわたって作者からの深いメッセージを送り続けられた。
それが何であるかは、ここでは書かない。作品の本当の意味はこの私にしかわからないからだ。作者村上春樹氏の思いは、誰よりもこの私が感じ取った。
そして、私と同じように感じている人が、おそらく100万人以上いる。
今後、世界各国で翻訳され、桁違いの読者を得ることになるだろうが、本当に意味を読み取れたのは、私だけだ、とこれから世界中の人が思うようになる。おそろしい作品だ。
主人公の一人、「天吾」という青年は、予備校で数学を教えながら、家では小説を書いている。
彼が小学生時代からのめりこんできた数学は、その明快さと絶対的な自由さゆえに、彼には必要だった。父親との軋轢から逃避するために必要な世界だった。
しかし、その世界から現実にもどったとき、まわりの現実は何も好転していないことに気づくようになり、しだいに小説の世界に惹かれていく。天吾はこう考える。
小説の世界から現実に戻ってきたときは、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう? 彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(『1Q84 book1』318頁)
すぐれた作品は、解釈に幅があり、100万人の読者に100万通りの読み方を与えてくれる。
人がこの世で生きていくうえで、思うようにならないことに出会ったとき、ときにそれを慰めてくれ、ときには逆に傷口をえぐるような力ももち、ときには一つの答えを提示してくれることもあれば、ただ深い悲しみを共有してくれたりする。
人生を思うように生きている人には文学は必要ないというのは、そういう意味でだ。
第一章、もう一人の主人公の「青豆」という女性が、渋滞の首都高でタクシーを降りる。ある任務を果たすために、渋滞が解消するのを待っている時間はないからだ。
コートを脱ぎ、ハイヒールをて手にもち、ミニスカートで非常階段を下りようとする。
青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー・ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。(『1Q84 book1』27頁)
このシーンで、すでに本を閉じられなくなったあなたは、正真正銘の「だめ」人間だ。仲間だ。連絡してこなくていいけど、心の連帯はしよう。息をひそめている仲間が実は相当いる。