水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

全国レベル(2)

2017年05月11日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「全国レベル(2)」

  人は、自分の周囲何メートルだけの世界や、自分のことを知ってくれている人で構成される空間だけで生きていくことはできない。
 この先大学に進み、就職して家族を持って、という人生を想定するとき、見知らぬ世界との接触は避けられない。


 ~ 子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、体面人間関係(いわゆる〈親密圏〉)を越えるときです。「体面人間関係を越えるとき」というのは、昔なら、トイレに行くのが怖い=家の闇と光、トトロ的な森の神秘=村の境界などが当たったのかもしれませんが、いまでは、高偏差値の学生たちなら、全国区の受験勉強でそれを体験します。
 喧嘩が一番強くても、クラスで一番を取っても、担任の先生に褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな対面評価ではあてにならないということを実感的に体験するのが全国区受験体験なわけです。
  … 大概(残念なことですが)、学歴差がそのまま仕事能力と相関している。“単純な”仕事でも学歴が高い方がまともにこなす。この相関は、給料ももちろんだし、三年以内離職率も中卒では七割を超える。単なる「国語・算数・理科・社会」のジェネラルエデュケーション(あるいはリベラルアーツ)の有無や格差がどう実務能力の格差と相関しているのか、いつも疑問に思っていましたが、たぶんそれは青年期の成長の最終段階で、対面関係を越えることが、現代では受験競争(および体育系クラブ活動における身体的な競争)くらいしかないからです。 (芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン)  ~


 ある共同体や社会では、そこで大人(一人前)として認められるためにクリアしなければならない課題が、一定の年齢になった者に課される儀式がある。
 ある日を境に大人の格好をさせられたり、力試しや度胸試しを課されたり、一定の困難を与えられてクリアさせるという形式をとることが多い。最も有名なのがバンジージャンプだ。
 現代の日本では、受験勉強がそのようなイニシエーション(通過儀礼)の一つとして機能していると言えるだろう。
 模試は、見知らぬ人との出会いに似ている。
 価値ある出会いにするためには、その相手に見合うだけの「実力」を自分が身につけている必要もある。憧れの人と会えたとしても、握手をして写真をとってもらって終わる関係は、「出会い」とは呼ばない。
 人と出会うには、まず自分から出かけていかねばならない。
 知っている人だけと暮らし続けるのは楽だ。模試など受けない方が楽に決まっている。
 意図的に「体面関係を越える」経験を積むことが自分を成長させる。
 もし今のままでいいなら、受験も試合もしなくていいという、ただそれだけのことだ。
 多少なりとも世界を変えたいなら、自分から「見知らぬ」体験にとびこんでいくしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国レベル

2017年05月10日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「全国レベル」


 「オギャー」とこの世に生を受け、自分と母親とが未分化の時代から、他人という存在を知覚できるようになり、自分の欲望がすべて叶うわけではないとわかってくる過程を成長とよぶ。
 この世には、自分の知らない世界が無限に存在し、一生出会うことのない人がいて、それぞれがそれぞれにかけがえのない人生を送っている。
 自分のことが大切なのは間違いないが、自分の外に存在する無限の「もの」「人」「世界」すべてが、「自分」と同じように大切であり、自分と同じようにちっぽけでもある … 。
 そんな意識を持てるようになると、さらにもう一歩成長できたことになる。
 電車のなかで傍若無人にふるまう人を見たときの嫌悪感とは、この世界どころか、自分の周囲数十㎝にさえ思いを抱けない未熟な存在を感じてしまうからだろう。
 模試を受けて、自分としては頑張ったつもりで、学校でもけっこう上位だった、でも全国的にはこの程度でしかないのか、とがっかりできることも、見知らぬ世界を知る一つの大切な機会だ。
 あまり勉強しなくても中学校ではふつうに上位の成績だった人もいるはずだ。
 高校ではそうはいかないどころか、手を抜いたらクラスの下の方になってしまった、という経験をする。
 部活では、インターハイレベルの部活とは、こんなに大変なのかと、高校に入って感じる。
 ともに貴重な経験だが、それは顔のわかる存在を相手にしている。
 模試を受けると、全国にはこんな問題で満点をとる同学年の、顔も知らないかしこいヤツがいるのかと驚く。
 あの県にはすごいピッチャーがいる、○○県のなんとかいうヤツは10秒台で走るらしい、というようにまだ見ぬ強豪に思いをはせることもある。
 見たこともないすごいヤツの存在を意識できることは、人の成長段階の一つとして大切な経験だ。


 ~ 受験勉強の特質があります。それは「遠い」ものへの意識を経験するということです。全国模擬試験や偏差値を通じて、クラスの級友(のライバル)を越えた関係を意識することになります。「遠い」もの、見えないものを制御する意識を受験勉強で初めて経験し、それを乗り越えていくわけです。
 スポーツのできる国体級の学生も全国のライバルの能力を測り実力、「遠い」ものを測る能力を備えています。「体育会」系も就職にはそれなりに強い。100メートルをコンマ何秒縮めるというのは、偏差値よりも客観的な戦いを勝ち抜いていくわけですから。 (芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン) ~


 受験勉強は、自分の能力の一側面を客観的に自覚させる。
 偏差値は人そのものの価値を測るものではないが、人としての価値を高めるためのきわめて貴重な情報を与えてくれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キコ「ララバイ」

2017年05月09日 | 演奏会・映画など

 

 連休中、阿佐ヶ谷ザムザというはじめての小屋で、キコというはじめての劇団を観た。
 「不倫したくなる恋愛活劇」という惹句に動かされて行った面もあるが、期待とはまったく異なる社会派SFだった。
 舞台は近未来の日本とおぼしき世界。強者と弱者、富裕層と貧困層とが完全に分離した世の中で、戦争が日常になっている人々の様子を描く。
 一部分を切り取ってみれば、今の日本のある町の一角であり、どこにでもいる男女のやりとりに見える。
 しかし、文脈に位置づけたときに、何気ない言葉のやりとりの裏側にあるどす黒いものが見えてくるような、実にカッコイイお芝居だった。個人的には少しかっこよすぎたけど。もう少し大衆に迎合して、大きなハコにお客さんを迎える方向性にいったらどうかなと感じたけど、そういう方には向かわなそうなとんがり具合が魅力とも言える。若さがうらやましい。


 ~ 新田野花です。神奈川自治区在住の高校三年生です。大人の皆さん、戦争、お疲れ様でした。皆さんのおかげで、今日のこの日があります。ありがとうございました! ~


 戦争が終結したあと、高校生の代表が演説に立つ最後のシーン。
 東日本大震災や広島平和記念日の式典で、壇上にあがってしみじみとメッセージを述べる女子校生の姿が彷彿とする。しかし、しみじみとは終わらない。

 
 ~ より良い適応。より良い幸福。より高い生産性。もっと快適に。酒はほどほどに。よく眠り、悪夢は見ない。すべての生き物には優しく、こだわりをもち、愛想よく、だが恋愛に溺れず。日曜には自転車でスーパーへ。暗闇も白昼の影も、もう恐れたりしない。十代ほど愚かで絶望的で子供じみた時代はない。急がず、計算高く、逃避など考えもせず、力を獲得し、情報に通じた社会の一員となって、人前では涙を見せず、より健康に、記憶力に優れ、虚無も怒りも卒業し、凍えるだけの冬に向かって、突き進む。より良い適応。より良い幸福。より高い生産性。…ブタ。…ブタ!!!てめぇら共食い好きの飢えたブタだ!!!!!そうやって殺しあってろ ~


 台詞はじめの落ち着いたトーンから、しだいに感情が高まっていく様子を演じる春風風花さんのお芝居には、鬼気迫るものがあった。まさにことばの申し子としか言いようがない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞台「スキップ」

2017年05月08日 | 演奏会・映画など

 

 キャラメルボックスの方々はさすがにお芝居上手。粟根さんの存在感も。
 そして主演の二人。霧矢大夢さん、深川麻衣さん。こういう企画でなければ生のお姿を観ることはなかっただろう。普段目にしている舞台女優さんとは、また別種の華がある。自分の存在感に対する無意識のうちの確固たる自信にあふれていて。
 そんなメンバーの作り出す演目だから、いいに決まっている。
 幕が上がってすぐ(幕はないけど)に、これは佳いお芝居になるという予感で、すでに泣けてしまうという希有な体験をした。
 17歳の女子高生、一ノ瀬真理子が、ある日目を覚ますと42歳の自分になっている。
 夫も娘もいる42歳の主婦、桜木真理子だ。
 誰に説明しても納得してもらえない。真理子自身も受け容れられない。
 とまどいながら接してくる主人や娘とやりとりしながら、現実を受け止めるしかないと思うようになる。
 42歳の自分は、高校の教師になっていた。17歳の意識で42歳の容れ物に入り、教師として生徒たちの前に立つ。そんな自分を慕ってくれる生徒達がいる。
 なんか先生若くなったと生徒達に言われる。懸命に与えられた今を生きながら、「自分はもう向こう側にはいけない、あんなふうに騒いだり悩んだり笑い合ったりけんかしたりできない … 」と思ったときに感じるせつなさを真理子は感じる。

 身にしみたのは、それが自分の日常だからだ。
 キャラメルボックスの初演は見ていない。なんでだろ。余裕がなかった時代だろうか。見たかったなあ。
 芝居に行く余裕がない頃は逆に、真理子のようなせつなさを感じてなかったのかもしれない。原作『スキップ』を、なかなか叙情的なSFだなぐらいの感覚で読んでいた。
 ひょっとして、事実を認識していなかったかもしれない。自分だって、いつだってそっち側にいける、そして何者にだってなれると思っていたのかもしれない。
 さすがに今はそんな往生際の悪いことは思わない。
 持てるリソースをいかに有効活用するかだ。意外に有効活用されてなくて、まだまだいける面もあったりすることに気づいたるもする。主に知的な面だけど。
 連休中、あるCDの録音に部員たちと出かけた。
 ステージで楽器をもつのは、音大生を中心とした上手な人たち。
 舞台下で青いTシャツに身を包み声をはりがえる若者たち。
 ともに「何者」にでもなれそうな若者たちだ。
 少しまえ、『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』という本を書店で目にした。
 山中伸弥先生や、是枝監督のインタビューをまとめた本ぽいから、違うタイトルなら即買いしただろう。
 でも書名を見た瞬間、「わるかったな、いまだに何者でもなくて。この先だって何者でもねえよ」とムカついて、手に取りもしなかった。読みたいなあ。
 その録音の日は、歌がうますぎる女子校生が登場し、一曲録音して記念写真をとってかえっていった。
 なぜおれは向こう側で、つまり歌う側にはいけなかったのだろう。同じくらい歌えるけどなあ。
 そんなわけないのに、そう思ってしまうと、若者達がますますまぶしく見える。
 17歳の精神で42歳の身体にいるせつなさは、もしかしたら、ものすごく普遍的な感覚なのではないか。
 北村薫氏の原作を読んだ時からけっこうな年月を経て、そのテーマの残酷さと深さにやっと気づけたのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする