学年だより「全国レベル(2)」
人は、自分の周囲何メートルだけの世界や、自分のことを知ってくれている人で構成される空間だけで生きていくことはできない。
この先大学に進み、就職して家族を持って、という人生を想定するとき、見知らぬ世界との接触は避けられない。
~ 子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、体面人間関係(いわゆる〈親密圏〉)を越えるときです。「体面人間関係を越えるとき」というのは、昔なら、トイレに行くのが怖い=家の闇と光、トトロ的な森の神秘=村の境界などが当たったのかもしれませんが、いまでは、高偏差値の学生たちなら、全国区の受験勉強でそれを体験します。
喧嘩が一番強くても、クラスで一番を取っても、担任の先生に褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな対面評価ではあてにならないということを実感的に体験するのが全国区受験体験なわけです。
… 大概(残念なことですが)、学歴差がそのまま仕事能力と相関している。“単純な”仕事でも学歴が高い方がまともにこなす。この相関は、給料ももちろんだし、三年以内離職率も中卒では七割を超える。単なる「国語・算数・理科・社会」のジェネラルエデュケーション(あるいはリベラルアーツ)の有無や格差がどう実務能力の格差と相関しているのか、いつも疑問に思っていましたが、たぶんそれは青年期の成長の最終段階で、対面関係を越えることが、現代では受験競争(および体育系クラブ活動における身体的な競争)くらいしかないからです。 (芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン) ~
ある共同体や社会では、そこで大人(一人前)として認められるためにクリアしなければならない課題が、一定の年齢になった者に課される儀式がある。
ある日を境に大人の格好をさせられたり、力試しや度胸試しを課されたり、一定の困難を与えられてクリアさせるという形式をとることが多い。最も有名なのがバンジージャンプだ。
現代の日本では、受験勉強がそのようなイニシエーション(通過儀礼)の一つとして機能していると言えるだろう。
模試は、見知らぬ人との出会いに似ている。
価値ある出会いにするためには、その相手に見合うだけの「実力」を自分が身につけている必要もある。憧れの人と会えたとしても、握手をして写真をとってもらって終わる関係は、「出会い」とは呼ばない。
人と出会うには、まず自分から出かけていかねばならない。
知っている人だけと暮らし続けるのは楽だ。模試など受けない方が楽に決まっている。
意図的に「体面関係を越える」経験を積むことが自分を成長させる。
もし今のままでいいなら、受験も試合もしなくていいという、ただそれだけのことだ。
多少なりとも世界を変えたいなら、自分から「見知らぬ」体験にとびこんでいくしかない。