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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

教材としての「舞姫」(4)

2017年06月04日 | 国語のお勉強(小説)

 

4 主人公と世間

 

 近代小説の「主人公」とは、世間と対立した存在であると規定できるのではないだろうか。

       主人公 ←→ 社会・世間

 授業において、この図式を示し、その他の登場人物が主人公側にいるのか、世間側にいるのかを整理することで、たとえばセンター試験で出題された文章も、一気に解けてしまう経験もある。
 「故郷」の主人公「わたし」は、世間を生きる「閏土」や「揚おばさん」とは対比関係にある。あまりにも世間知らずであるがゆえに、幼なじみに「だんな様」と呼ばれてショックを受けたりもする。客観的に見ればたんに世間知らずの坊っちゃんである「わたし」なのだが、つい私たちは「主人公の心の痛みを考えてみよう」と問うてしまう。「わたし」の勝手な思いこみで美化されている「故郷」であるが、現実の娑婆を生きる故郷の人々と接することで、彼の気持ちが変化してゆく。「故郷」は、「故郷←→世間」という「わたし」の意識が「故郷=世間」に変化する物語、ということができる。
 「走れメロス」では、主人公の「メロス」と「王」が対比関係にある。「人々」はどうか。暴虐の王、それを受け入れている人民、あわさって一つの世間を構成しているのだ。「王」と「人々」は一見対比関係にあるようだが、「主人公」から見ると世間側つまり反主人公側である。すると、「走れメロス」は、メロスがたった独りで世間に立ち向かおうとした物語、と読むことができる。
 「少年の日の思い出」では、世間側にいる今の「わたし」が、まだ反世間にいた幼年時代の「わたし」を回想する。反世間的な自分にあこがれを持ちつつ世間を生きている「わたし」の感傷的な回想話である。
 「オツベルと象」は、オツベルが主人公ではない。あまりにも純粋で無垢であることにおいて反世間的な「象」が主人公である。

 文学作品を読解していくには、次の観点が必要だと考えている。


  ① 作品にどのような世間が描かれているか。
 ② 主人公はその世間とどの程度向き合っているのか。
 ③ 読者である自分は、どういう世間を生きているか。
 ④ 読者である自分は、自分の属する世間とどう関わって生きているか。


 自らも世間を構成する一員であるということを、他人事ではなく自分のこととして意識できる読者ほど読みが深まるのは言うまでもない。理想や観念ではなく、現実としての世間を自覚できれば、作品における世間の描き方が狭い時にはそれに気づくこともできる。作品に描かれた世間、読者の生きる世間、この二つのせめぎ合いを読者が意識したとき、作品の文学としての機能が発揮されるのではないだろうか。
 そして、生徒の中にこの「せめぎ合い」が自然に生まれる作品として、「舞姫」はきわめてすぐれた力をもつ。

 

 

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教材としての「舞姫」(3)

2017年06月03日 | 国語のお勉強(小説)

 

3 小説の基本構造と「世間」


 これまで作品の「世界」とか、主人公が見ている「社会」といった言葉を用いて論じてきた。しかし「世界」「社会」という用語では、作品を観念的にしかとらえられない。そこで、文学作品を読解するために「世間」という観点の導入を提案したい。身近に用いられる言葉だが、この「世間」を学問的に解明するという試みは、阿部謹也氏がはじめられた。あくまでも「社会」とは異なる「世間」とはどういうものか。


 ~ 本来は世界という意味ですから世界全体でなければなりませんが、いまでは日本の世間、世間の人々というときは、自分と関係がある、利害関係を持っている、そういう人間であって、今後利害関係を持つであろう人も含めた人間の集団の全体をいいます。自分が知らない人、自分が利害関係をいっさい持っていない人は世間に入りません。 (阿部謹也編著『世間学への招待』青弓社) ~


 私たちは、近代国家に生きていると思っている。自由や権利を与えられた一個人、一市民として近代社会を生きていると思っている。しかし、現実に私たちの日常のありようを規定するのは、自分の属する「世間」である。学校、会社、地域さまざまな場所や集団で、私たちは「世間」にしばられている。「世間体など気にしない」とツッぱる若者たちでさえ、自分たち独自の強固な世間を形成して生きている。誰もが近代的市民であるという意識を漠然ともちながら、現実には「世間」を生きざるを得ない。
 そこに葛藤が生まれる。近代小説の主人公は、そういう葛藤を端的に表す存在として描かれてきた。
 小説は、基本的に次のような構造を持つものと考えている。
 なんらかの「事件」が起こる。その事件によって主人公がなんらかの「心情」を抱く。そしてその心情に基づいて引き起こされる「言動」が描写される。「事件→心情→言動」の3点セットである。
 では、事件はどういう時に起こるのか。それは、主人公が世間と関わりをもった時である。
 典型的な例は、先に述べた「東大生が恋愛して心を病む」パターンに見られる。主人公が、自らの恋愛を結婚という形で成就するためには、必然的に世間との関わりを持たねばならない。青春期、つまりモラトリアム期を生きる主人公にとって、これはつらいことだ。自分一人の観念世界に生きるだけなら考えなくてもいいような世俗の様々なことについて、決断がせまられる。決断しないことを許される期間の終わりを感じ、また自らが嫌悪していた世間の中に自分自身も入って行かなくてはならないことを意識し、苦悩する。これが主人公と世間との関わりである。

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排気量

2017年06月02日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「排気量」


 「100ます計算」の陰山英男先生は、長年小学校の教壇に立ち続け、陰山メソッドとよばれる学習方法を編み出した先生として有名だ。
 勉強とは何か。「人は何のために勉強するのか」を考え続けた結果、陰山先生がたどりついた結論とは、「勉強は集中の練習」というものだった。
 知識を身につけることや成績をあげることが勉強の最終目標ではない。
 脳を集中させる経験の積み重ねで、その人の能力そのものをあげることが目標だと述べられる。


 ~ 集中とは、脳を最大限に使うことです。
 文章を読んだり、数式を計算したり、英単語を覚えたりといった作業は、いずれも脳のトレーニングにつながります。
 勉強で基礎というと、多くの人は「知識」のことだと考えますが、より重要なのは「能力」を身につけることです。
 勉強すると脳がもつポテンシャル(潜在能力)が高まり、能力が蓄えられます。
 それは勉強の場面においては、数式を解く力になったり、英単語を思い出す力になったりしますが、社会に出ると、ビジネスにおける正解のない問題を解決する力などにも応用されます。
 また、「読み・書き・計算」をする際に使われる脳細胞は、コミュニケーションを司る脳細胞と同じであることがわかっています。
 つまり、勉強によって脳の力を鍛えることで、人間関係を築く力や冷静に人を見る目なども養われるのです。
 こうした能力は、いずれも仕事で成果を出すために不可欠なものです。
 大人になり、社会に出たときこそ、学校で脳をどれだけ鍛えたかが問われます。
 つまり、「学校の勉強=集中する練習」は、じつは「社会に出てから活躍できる人になるためのトレーニング」なのです。 (陰山英男『人生にとって意味のある勉強法』PHP新書) ~


 最新の科学が明らかにしていることと、陰山先生の指摘とが驚くほど合致する。
 遙か遠くに、自分の行きたいところがあるとする。
 その長旅の移動手段として、3000ccの高級車と、660ccの軽自動車の両方が用意されていたとき、どちらを選びたいだろうか。燃費や税金は関係ないとして。
 大学を出て、就職し、人生の大きな目標に向かって進んでいこうとしたときに、3000ccの脳と660ccの脳とでは、どちらが成功に近づきやすいだろう。
 繰り返しになるが、脳の「排気量」は自分で大きくすることができる。
 今必死で脳を使っていくと、未来の自分がお礼を言いにくるにちがいない。
 今やるべきことは、今その瞬間は辛く苦しいこともあるかもしれないが、未来とのつながりのなかに位置づけたとき、新しい意味をもってくる。辛いこと苦しいこと自体が喜びに変わる。

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教材としての「舞姫」(2)

2017年06月01日 | 国語のお勉強(小説)

 

2 「文学教育者」の世界

 

 文学作品を教える側、つまり私たち教師の世界がまた狭い。狭いが故に、文学作品の描く世界の狭さにも、多くの場合は無自覚なのではないだろうか。
 教材として与えられたものの狭さに気づかず、教科書に載っているのだからすぐれた作品にちがいないといった思考停止状態で作品にふれることになる。その結果、授業では、「主人公のとった行動は正しかったのか」「主人公の生き方をどう思うか」といった発問が行われる。
 このような道徳的判断をするためには、まず主人公の置かれている社会についての情報を、出来うる限り得なければならない。狭い範囲の世界しか描いてない作品をもとに、またはある状況の一局面を読んだだけで、「主人公の生き方について」などという大きな問題を考えさせるのは危険である。
 それは現実の社会において、誰かの言った一言だけをよりどころにして、その人を例えば「卑怯だ」と判断するのが危険であるのと同じである。
 この論点については、宇佐美寛氏が繰り返し述べられている。


 ~ さきの「夕焼け」も「故郷」もさまざまな道徳的事実を示している文章である。混雑する電車の中の行動、貧富・身分差、友人関係、故郷の人間関係等、いろいろな事実があり、登場人物は、その事実の中で、ある意志決定をしている。
 これは、丹念に調べ分析すべき対象なのである。(中略)
 それなのに、「僕」は、いとも安易にある行動を「やさしい心」によるものと見なして肯定的に評価する。また、「故郷」では、「わたし」は自己反省抜きで「希望」をいう。作者は、必要な事実の提示抜きで「わたし」に「希望」を語らせる。
 そして「文学教育者」たちは、このような作者の安易さに気づかずに、作品を肯定して、生徒に与える。 宇佐美寛・問題意識集4『文学教育』批判」明治図書) ~


 「文学教育者」たちは、この文章を読んでいないのだろうか。初出の『国語科授業批判』を読んでいないのだろうか。現場では、今も多くの方が「作者の安易さに気づかずに、作品を肯定して、生徒に与える」ことを繰り返していると思われる。
 たとえば「故郷」の授業で次の発問がある。


 ~ 発問「だんな様…」と言った閏土と言われた「わたし」ではどちらがかわいそうですか。
       (平山富子「『故郷』(魯迅)を読む」『日本教育技術方法大系第13巻』明治図書) ~


 最近の実践報告にも、この発問の実践例がとりあげられていた。
 江頭美保子氏は、「あいまい」という分析批評用語を教える実践の中で、この発問を用いている。


 ~  この教材での最大の論題は、以下のものであると考えている。

    「だんなさま!……と言われた私と言った閏土とではどちらがかわいそうですか。」

  この原実践は、第Ⅰ期法則化論文の平山富子氏のものである。この論題については、「かわいそう」という主観が問われており、『あいまい』とは少しずれるので、詳しくは述べない。だが、これを受けて閏土の悲しみにも気づかせたあとで、上記の皿や椀についての論題を提出する。
 (江頭美保子「『あいまい』を問うことで討論を仕組む~走れメロス・故郷~」「向山型国語教え方教室」05年1-2月号・明治図書) ~


 江頭氏はこの発問を「故郷」において「最大の論題」と位置づけ、「閏土の悲しみにも気づかせ」たいという。しかし、閏土は「かわいそう」なのだろうか。「気づかせ」なければならないほどの「悲しみ」が閏土にあるのだろうか。たとえば現代の日本でも、ガキ大将だった子が、大人になってから、昔いじめていた相手の経営する会社の世話になる、などということは、特別なことではない。まして革命前の中国の話である。閏土はもともと「わたし」のうちに下働きに来ていた男の子供である。物心がつけば、閏土が「わたし」を「だんなさま」と呼ぶことにいちいち悲しみを感じるはずがない。そんなことでは、厳しい現実を生きていけない。「悲しみ」がもしあるとするならば、幼なじみを「だんなさま」と呼ぶことではなく、思うようにならない日々の暮らしに対してであろう。
 「閏土の悲しみにも気づかせ」たいという発想は、世間知らずで感傷的な読み方と言わざるを得ない。この感覚は、エリートのものなのである。教える側が、どろどろとした現実社会を生きていないと言えないだろうか。

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