水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

街の上で

2021年05月11日 | 演奏会・映画など
 下北沢という街を舞台にして若者たちの日常を切り取った作品。
 お芝居の世界に「静かな演劇」という言葉があるが、「静かな映画」とよびたい作品だ。
 「水の東西」の個人的な定番発問にこういうのがある。

Q「『鹿おどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。」とあるが、筆者はなぜ「人生のけだるさ」を感じるのか。
A 単純で緩やかなリズムがいつまでも繰り返され、結果的に何事も起こらない鹿おどしの動きは、平凡な日常の積み重ねで成り立つ人生のあり方と似たものに感じられるから。

「何処住んでるの?」「下北沢」。
 上京して仮に下北と言える範囲に居を構え、帰省した折にそれを告げたなら、八割方は「どこ?」となり、ごく一部の意識高い系は「え! 芝居やってたっけ」ぐらい言ってくれるだろう。
 でも下北だからといって、毎日演劇祭が行われているわけではないし、有名な役者さんが街を流しているわけではない。
 芝居小屋はたくさんあるし、田舎には絶対ないような文化を感じさせるお店はたしかにいろいろある。
 だからといって、そこに棲息する人々が毎日毎日非日常的な日常を過ごしているわけではない。
 華やかな噴水のような毎日ではなく、むしろ、なんかありそうで何も起こらない「鹿おどし」のような暮らしぶりだ。
 この映画に噴水はない。
 凶悪犯罪もないし、スーパーマンもゾンビも出ない。
 ヤクザの抗争もなければ、カーチェイスもない。役所広司も有村架純ちゃんも出ない。
 下北に住む若者や周辺の人々の「鹿おどしぶり」をそのまま描き、でも時折訪れる出来事をちょっとだけドラマティックにする。
 読解力の乏しい人は、「ご当地映画」と感じるだろうが、実は普遍的な青春の造形になっている。
 普遍性を描くのにふさわしく、すばらしいキャスティングだった。下北沢に広瀬すずや浜辺美波を住まわせてはいけない。
 主演の若葉竜也くんのあじわい。そして魅力的な四人の女優さん。穂志もえかさん、古川琴音さん、萩原みのりさん、中田青渚さん。
 皆さんほんとに自然に演じている。中田青渚さんのセリフなんか、アドリブ?と思うときもあり、すべて書き込まれてあったセリフだとしたら、それもすごい。
 外連味たっぷりの大型エンターテインメントをつくろうとすると、どうしても洋画に見劣りすることがあるけど、こういう「静かな映画」は、邦画の真骨頂ではないだろうか。個人的な好みの問題かもしれないが。今年のベストかなと思った(もう五個ぐらいベストって言ってるかも)。
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運気を磨く

2021年05月10日 | 学年だよりなど
1学年だより「運気を磨く」


 「運」から遠ざかることも簡単だ。「大谷8項目」の逆をやればいい。
 人にあっても挨拶しない、感謝をしない、自分のことしか考えない……。
 たとえば、愚痴ばかり言っている人は、良い運気が下がっていく。
 なぜか。田坂広志氏は、三つの理由があると説明する。
 一つ目は、ネガティブな思いによって、仕事の集中力が失われ、本来の実力を発揮させないこと。
 二つ目は、ネガティブな言葉を発していると、周りの人がいやな思いをすることだ。
 なるほどと思う。イヤイヤやっていることは能率があがらないし、文句ばかり口にしている人と友達になりたくはない。そう思われている人の運気があがるとは、思いにくい。
 そして大事なのは三つ目だと言う。


~ 第三の理由は、実は、これが最も重要な理由であるが、人間同士のコミュニケーションの八割は、「ノンバーバル」(非言語的)だからである。
 すなわち、コミュニケーションには、「言葉で伝わるメッセージ」(バーバル・メッセージ)以外に、眼(まな)差(ざ)しや目つき、表情や面構え、仕草や身振り、空気や雰囲気といった「言葉以外で伝わるメッセージ」(ノンバーバル・メッセージ)があり、実は、後者は、コミュニケーションの八割以上を占めているのである。
 そのため、もし、ある人が、心の中に不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪といった「ネガティブな想念」を抱いている場合、表面的な言葉のメッセージでは、相手や周りにその想念を伝えていないつもりでも、言葉以外のメッセージで、その想念を相手や周りに伝えてしまうことは、しばしば起こる。
 そして、こうしたことが起こると、「ポジティブな想念」を持った人は、自然に、その人から離れていくことになり、直接、離れていかなくとも、心が離れていくことになる。
 さらに、逆に、この人の周りには、「ネガティブな想念」を持った人が近づいてくるため、結果として、様々な問題やトラブルを引き寄せることになる。
 実際、周りから「あの人は暗い感じの人だ」「あの人は冷たい感じがする」と言われるような人は、特に、ネガティブな言葉を発しなくとも、自然に周りから人が遠ざかっていくことは、しばしば起こっている。(田坂広志『運気を磨く』光文社新書)


 対比の法則により、どうすればいいかは明白だ。
 自分からあいさつをする、笑顔でいる、愚痴を言わない、不機嫌オーラを出さない。
 自分の心がけ一つで可能だ。これらを積み重ねるのは、勉強する、トレーニングするのと同じくらい、いや人生の土台を作るという意味では、それら以上に大切なことではないだろうか。
 夢を叶える、目標に向かっていく生き方とは、自分で運気をあげていく生活のことだと言える。
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「不均等な時間(内山節)」の授業(2)

2021年05月10日 | 国語のお勉強(評論)
6~10段落


6 たとえば上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。その季節が戻ってくれば、村人はその仕事をし、夕方が戻ってくれば川に竿を出す。もちろん畑仕事もこの循環の中に組み込まれている。ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。時間は経済価値を生む時間と生まない時間に分裂する。そして経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。それにどんな意味を与えようとも、こうして時間は管理するものへと変わり、それは時間に管理されることと一対の関係になる。
7 伝統的な山村の暮らしの中では、時間は終わることも、区切られることもなく循環していた。仕事も暮らしも、その隙間に現れる〈 アソビ 〉も、すべてが途切れることなく山里の時間世界の中を流れていた。そしてその時間の流れが、そのまま村人の存在であった。
8 ところが時間を管理し、時間に管理されるようになった瞬間から、〈 時間は人間の存在から外化する 〉。時間は時計の音とともに客観的に動き続け、この時間にいかに対応していくかが人々に突きつけられる。かつては農民の営みとともに時間が作られていたのに、今では時間にいかに対応していくのかが、農民の営みになった。
9 上野村の人々が、「先進的」で近代化された農業経営の様子に感嘆の声を上げながら、決して〈 それをまねしようとしない 〉のは、時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくとも〈 そこ 〉に自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。
10 時間世界を変えることは、自分の存在を変えることであり、自分自身を別の人間に作り変えることである。


6上野村
  夕方の釣り・春の山菜採り・秋の茸狩り・畑仕事
    ∥
  循環する季節の中での営み
   ↑
   ↓
 時計の刻む時間が価値を生む世界
    ↓
  時間……分裂(経済価値を生む時間←→生まない時間)

7伝統的な山村の暮らし
  仕事・暮らし・アソビ……循環する時間の中
    ∥
 (上野村の)村人の存在(のあり方)
   ↑
   ↓
8(隣村・現代社会)
  時間……管理し・管理される
    ↓
  時間……人間の存在から外化
    ∥
  時間……時計の音とともに客観的に動き続ける
    ∥
  隣村の農民の営み

心理学用語【外化】
 ……自分の内にある不明瞭なものを、外に出すことによって可視化(認知可能なものに)する行為。

 例 漠然とした思い → 作品 
    おぼろげ → 形 …… 外化

 ※ 内部にある悶々とした思いを次元の高いものに変えて表現する → 昇華
    もやもや → 芸術 …… 昇華

9 上野村の人々
  「先進的」で近代化された農業経営をまねしない
    ↑
 r 時計の時間が価値を生む社会への転換
    →山村の暮らしや人々の意識を変えてしまう
      ∥
   そこに自分たちの存在の形がない

10 時間世界を変えること
    ∥
  自分の存在を変えること
    ∥
  自分自身を別の人間に作り変えること


「アソビ」について、

Q6「アソビ」の具体例を3つ抜き出せ。
A6 釣り、山菜採り 茸狩り

Q7「遊び」ではなく「アソビ」と片仮名表記されているのはなぜか、50字以内で説明せよ。
A7 労働と反対の意味での遊びではなく、循環する時間の中
   を生きる村人の営みの一つであることを表すため。

「時間は人間の存在から外化する」について、

Q8 63頁13行目「外化」と意味の似た言葉を11段落から漢字3文字で記せ。
A8 客観化

Q9「時間は人間の存在から外化する」とはどういうことか。50字以内で記せ。
A9 人々の暮らしや存在と一体化していた時間が、
   時計の数字で客観化され、
   人間の外部に存在するようになる。

「それをまねしようとしない」について

Q10「それ」は何を指すか、本文の言葉を用いて20字以内で記せ。
A10 隣村の「先進的」で近代化された農業経営

Q11「まねしようとしない」のは、上野村の農業がどのようなものであるからか。60字以内で記せ。
A11 近代的な時間の中ではなく、
   循環する時間世界の中で、
   自然と一体になった暮らしの一部として営まれる
   昔ながらの農業。

Q10「そこ」とはどこか、15字以内で抜き出せ。
A10 時計の時間が価値を生む社会
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「不均等な時間(内山節)」の授業(1)

2021年05月09日 | 国語のお勉強(評論)
1~5段落

1 春になると私は上野村の村人といっしょに、近くの村に山菜採りに出かける。そこにはヤマウドなどがたくさん芽生えていて、カッコウやウグイスの鳴き声を聴きながら山歩きをするのは、村人たちの楽しみでもある。昼になると村人は森の木陰で弁当を広げ、子供のようにはしゃいでいる。
2 その間にも森から見下ろす畑の上では、春の耕作を進める隣村の人々の姿が見える。それは〈 上野村とは全く異なる農業 〉である。山の裾野は広大に開墾され、大型トラクターが動いている。高冷地の野菜専用の農地、その光景を見ると上野村の人々も感嘆の声を上げる。三反もあれば大百姓と言われる上野村とは違って、ここでは一区画が一ヘクタールを超えるような農地が切り開かれている。
 「〈 この村の人たちは偉いものだ 〉。」
そう言いながら上野村の人々は、この村の農民たちを称賛する。
3 ところが毎年同じように感嘆しているのに、〈 上野村の人々は少しもこの新しい農業をまねしようとはしない 〉。村に帰れば、村人は鍬や鋤を使った伝統的な山村農業に従う。もちろんまねをしようにも傾斜のきつい上野村では、同規模の農地を造成することは不可能なのだけれど、それでもその気になれば開墾可能な場所もないではない。何よりも、この村では上野村の農民の平均所得の百倍を超える粗収入のある農民が多数いることを、上野村の人々も知っているのにである。
4 おそらく毎年感嘆の声を上げるだけで終わってしまうのは、上野村とこの村の農業の間には、根本的に違う営農の世界があることを、上野村の人々が知っているからであろう。上野村の農業は伝統的な畑仕事として展開している。季節の循環とともに作物を作り、その作物を利用して村人もまた循環する季節とともに暮らしている。ところが隣の村で行われている農業は、農業経営なのである。ここでは農地が商品の生産工場になっている。農民は大地に投資をし、そこを商品の生産工程に変えた。
5 上野村の畑では作物を作り、毎年同じ季節を迎えることに価値があるのに、この村では〈 労働時間 〉の作り出す経済価値がすべてである。とともに、この相違は農業の形だけでなく、暮らしのすべての面に現れてくる。


1上野村の村人
  山菜採り・山歩き → 子供のようにはしゃぐ
   ↑
   ↓
2隣村の人々
  広大な農地・大型トラクター → (楽しくない)
  高冷地野菜専用農地
  = 上野村とは全く異なる農業
   ↑
 上野村の村人……称賛butまねしない
   ↑
4 r「根本的に違う営農の世界だと知っている」から

5上野村の農業
  伝統的な畑仕事
  季節の循環のなか → 作物
      ∥
  毎年同じ季節を迎えることに価値がある
    ↑
    ↓
 隣の村で行われている農業
  農業経営
  農地=生産工場 → 商品
      ∥
労働時間の作り出す経済価値がすべて
    ∥
 暮らしのすべての面の相違


「上野村とは全く異なる農業」について、

Q1「全く異なる農業」を行っている人はだれか。5字で抜き出せ。
A1 隣村の人々

Q2「全く異なる」のは、上野村で行われている農業がどのようなものだからか。15字で抜き出せ。
A2 鍬や鋤を使った伝統的な山村農業

Q3 Q2の答えに対して、この農業の様子はどのようなものだと述べられているか。9段落から16字で抜き出せ。
A3 「先進的」で近代的された農業経営

Q4 「上野村の人々は少しもこの新しい農業をまねしようとはしない」のは、なぜか。その理由が述べられた部分を45字以上50字以内で抜き出し、最初と最後の4文字ずつを記せ。
A4 上野村と ~ いるから

Q5 「労働時間」を言い換えた9字の言葉を6段落から抜き出せ。
A5 経済価値を生む時間
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運を強くする

2021年05月08日 | 学年だよりなど
1学年だより「運を強くする」


 「8球団ドラ1」目標を達成するために大谷選手が書き出したのは、①「体づくり」、②「コントロール」、③「キレ」、④「メンタル」、⑤「スピード160㎞」、⑥「人間性」、⑦「運」、⑧「変化球」の8要素だった。①~⑤は、小学生でも考えつくだろう。
 ⑥「人間性」も、高校生ならば、実践できるかどうは別にして、書くことはできる。
 大谷選手のすごいところは、⑦「運」と書いたことだ。
 そして⑦「運」を高めるための具体的行動として、以下の8項目を立てている。


~ 1「あいさつ」 2「ゴミ拾い」 3「部屋そうじ」 4「道具を大切に使う」
  5「審判さんへの態度」 6「プラス思考」 7「応援される人間になる」 8「本を読む」 ~


 そもそも「運のいい人」とは、どういう人のことだろう。
 世間で「成功者」と呼ばれる方々は、皆「自分は運がよかった」という。
 「たまたま」知人の紹介でビッグチャンスを得た、「たまたま」時代の流れに乗ることができた、「たまたま」いい商品を開発できた、「たまたま」売れた … 。
 たしかにそんなふうに見えないこともない。
 「たまたま与えられたチャンスをものにできた人」というふうに。
 しかし「たまたま」とは言っても、その仕事に「もともと」関わっていたことは間違いない。
 そしてチャンスに巡り会ったとき、それをものにする力を持っている必要がある。
 「たまたま」のチャンスはどうつかむか。
 自分の力を高めながら、たえずアンテナをはり続け、同時に、他人から声をかけてもらえるような人間でいなければならない。
 同じ実力を持つAさんとBさんがいた場合、チャンスを与えられる確立が高いのは、やはり接していて気持ちいい方の人だろう。あいさつもできない人に、仕事を依頼したいとは思わない。
 大谷選手の立ち居振る舞いは、いまやメジャーリーグ全体に影響を与えかねないほどのものになっている。
 ホームベース上のゴミを拾う、ひまわりの種を紙コップに捨てる、ボールボーイに感謝する、自分に死球をあてた相手投手を気遣う、ヒット性の当たりをキャッチして相手バッターに笑顔で「ごめんね」と言う……。もちろん「審判さんへの態度」もジェントルマンだ。
 相手チームの選手やファンまでが、気がついたら大谷選手の一挙手一投足に見入っている。
 「応援される人間になる」ことで、より実力を発揮できることを彼は知っている。
 「運」とは「たまたま」手にするものではなく、まぎれもなく自分でつかむものだと言える。
 大谷選手が立てた8項目は、自分が心がけさえすればできることばかりだ。
 「運」の中に偶然の要素はおどろくほど少ない。
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夢の視覚化

2021年05月07日 | 学年だよりなど
1学年だより「夢の視覚化」


 エンゼルスの大谷翔平選手は、幼い頃から、プロ野球選手になりたいという夢をもっていた。花巻東高校の1年生の時、佐々木監督の指導のもとで、その夢を視覚化するという作業を行った。
 漠然とした「夢」を、まず「8球団からドラフト1位で指名される」と具体化した。
 次に、その夢を実現するために必要と思われる要素を考えてみる。
 高一の大谷少年は、①「体づくり」、②「コントロール」、③「キレ」、④「メンタル」、⑤「スピード160㎞」、⑥「人間性」、⑦「運」、⑧「変化球」の8つをあげた。
 視覚化の方法はこうだ。まず3×3の九つのマスを書く。
 中心のマスに「ドラ1 8球団」と書く。
 その周りを取り囲む8つのマスに、上記の8要素を書き入れていく。
 夢を中心とする計9マスの外側に、さらに3×3のマスを放射状に書く。
 それぞれの中心に、①「体づくり」、②「コントロール」… とおいていく。
 各要素を高めるための具体的な項目を、取り囲む8マスに書き入れていく。
 「夢」を現実に変えていくための道筋が、8要素、64項目という具体的な形で視覚的に明らかになった。
 このように視覚化することで、漠然とした夢が成功への道筋に変わる。
 私たちは、「夢がある」と口にしながら、それを具体的な行動に移しているだろうか。
「志望大学に受かる」「インハイに出る」「ミュージシャンになる」「起業する」……。
 夢見ているだけでは、夢物語におわってしまうのだ。
 「目標を書いて貼っておくと、夢は叶う」と言われるが、貼った「だけ」で夢を叶えた人はいない。
 必ず目標を達成するための行動が積み重ねられている。それをはっきりと示してくれるのが、「マンダラチャート」とよばれるこの表だ。
「マンダラチャート」でなくてもいい。
 夢の「視覚化」つまり、「具体化」「細分化」の作業を今こそやっておこう。
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約束の宇宙

2021年05月05日 | 演奏会・映画など
 何かをなしとげようと思ったなら、それ以外の多くのものをがまんしなければならない。
 あたりまえの原則だが、ときどき忘れそうになる。
 試合に勝ちたいけど練習がもう少し楽ならいいなあとか、仕事の成果をあげたいけどのんびりしたいなあとか。
 そんなことはあり得ないのに。
 仕事と遊びに境目がなく、人生を謳歌しながら億万長者みたいな人はたしかにいるが、彼らもおそらくいろんなものを捨てて今があるはずだ。われわれ一般人にそれが見えないだけで。
 世間の耳目を集め華々しい活躍をしている人、たとえばアスリートとか、アーティストとよばれる人も、その華々しさの元には、一般人の想像を超えた積み重ねがある。
 
 幼い頃、宇宙飛行士になりたいという夢を持ち、女の子は無理と言われ続けて、それでもあきらめずに努力し続けてきたサラ。
 その過程で出会って結婚した夫との間に一女をもうけ、しかし離婚してシングルマザーとして娘を育てながら、宇宙飛行士の訓練を続けている。
 そして、ついに宇宙飛行士に抜擢されて、数週間の実践的訓練に経て、宇宙へと旅立っていく……。
 彼女のこの一連の過程だけ見れば、努力が報われて夢がかなったハッピープロセス、ハッピーエンドだが、それは幼い娘と離れて暮らすことでもある。
 娘のステラちゃんは小学校低学年の設定だと思うが、高1に1年会えないのとではやはり意味が異なる。
 母親の庇護があってはじめて心が落ち着く年齢だし、成長の度合いもまるっきり違う。
 先輩の飛行士が「大事なのは、帰還したあとの生活だ。自分抜きで1年間暮らしがすすんでいるから」と話してくれる場面があった。
 自分抜きで娘が育っていくこと。母親にとっては、一番せつない夢の代償かもしれない。
 二人の涙は、母親経験がない者の涙も誘う。
 夢の実現には、女性であることの困難もつきまとう。
 熱を出した娘の対応で訓練に遅れればいやみを言われ、しょせん女にはつとまらない、はやく辞めろ言われる。
 子育てしながら仕事との両立に苦労する女性でなくても、その切実さが伝わる。
 それでも、彼女はあきらめない。
 「もうムリ!」と思わず口にするほど追い込まれながら、なんとか自分を保てているのは、やはり娘の存在のためだ。
 この辛さから逃げたなら、かえって娘に顔向けできないから、というような。
 ロケットを見せるという約束を果たし、あれに乗っていくからねという母親を見つめる最後のシーンでは、一人の女性としてがんばってと言っているかのような落ち着いた笑顔を見せるステラ。
 この子役の子、なんて上手なんだろ。かわいいし。西洋人のかわいい少女は反則なぐらいかわいい。
 あんまりたくさんの映画館でやってる作品ではないが、地に足のついた名作だと思う。

 夢を叶えるためには、友達を楽しく過ごす時間も、ゲームをしたりマンガを読んだりする時間もなくなる。
 お酒を飲んでわいわい騒ぐ時間もなくなる。仕事のために親の死に目にあえないなんてこともある。
 たくさんのことを失う。でもおそらく別種のものを手に入れられることも間違いない。
 どっちをとるかは、その人の考え方、生き方の問題であり、そこに正解はない。
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ミナリ

2021年05月04日 | 演奏会・映画など
 移住した韓国人一家の移民物語がアメリカで好評を博したのは、アメリカ人が根本的にもつ移民アインデンティティを刺激されたからなんじゃないかな……て言えるほど、アメリカのことは知らないけど。
 でも、たとえば「あの子は貴族」の主人公の気持ちを、よほど生粋の東京っ子以外の東京人がなんとなく感じ取れるみたいな感覚はあるような気がする。
 思い描く理想の新生活は、そう簡単に手に入るものではないことを、誰もがわかっている。
 わかっていながら夢を追い、明日を信じてしたたかに生きる移民の暮らし。
 水辺に芽を出し根を張っていくミナリはそんな暮らしの象徴だ。
 センターの小説問題の最後に必ず出るタイプの、わかりやすい象徴。
 若い一家がすべてを失って川辺に行ったとき目にするのは、亡くなったおばあちゃんの植えたミナリが大きく根を張っている様子だった。そしてそれ以上説明しないのがいい。邦画だと、ここで「もう一回がんばろう」って言わせちゃったりしがちだ。
 あじわい深い作品だった。おばあちゃん役の方がアカデミー賞の女優賞を受賞されたのも納得できる。
 インタビューで、(隣にいる)ブラッドピットさんはどんな匂いですか? と尋ねられ、「私はイヌじゃない」と笑顔で答えられていた。アメリカにも日本と同じくらい低レベルのインタビュアはいるものだ。いつか樹木希林さんにもとってほしかった。きれのあるインタビューを見たかった。

 アカデミー賞が発表された翌朝、天声人語がなんか的外れなことを書いていた。
 もしかすると自分に気づけない深い洞察があるのだとしたら、読解力不足を謝るしかないのだけど。
 でも、昨今の情勢のなかでのアカデミー賞で、アジア出身の監督さんが作品賞を、韓国の女優さんが主演女優賞をとるということになんの言及もなく、もちろん一般人のYAHOO映画のコメント欄レベルならいいけど、天下の朝日新聞の一面がこんなレベルでいいのかと驚いた。
 ミナリとはセリの意味だと紹介し(映画に興味ある人は知ってるって)、セリ鍋がブームになって久しいと述べ(ほんとに?)、子供世代のために働く親という意味がセリにあると紹介し、セリの食感が恋しくなった……とまとめる。
 入試の小論文で書いたら、まず点数をもらえないだろう。自分の講習を受けている生徒さんから提出されたら赤だらけになる。
 文章のうまい下手以前に、志が感じられない。
 悪口ではない。自己防衛としてそう感じる。
 小論文の勉強に「天声人語」を読もうなどとのたまわれる同業者が、今もいると聞くので。
 正直、他校の生徒さんがそうしててもかまわないのだけど、国民を育てる仕事に携わる者として、ほおっておけない思いがふつふつとわいてきた。逆にこの天声人語自体が、小論文講習のネタにはなる。
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