実質的に春休みとなり、帰京しているので、平日ながら、山城を訪問する(先週の水曜は清洲城に行った)。
さて今回は「滝山城」(八王子市)。
実は、ここは高校1年の時、入学した近くの全寮制の高校から自転車で訪れた所。
その頃は城=天守閣というイメージだったので、堀や曲輪を見ても「何もない」という印象だった。
だが、ここを訪れたことで、この地域の中世戦国史に興味をもち始め、高校の「地歴部」に入った。
同じ東京でも区部にいると、太田道灌と徳川家康の存在感が強すぎ、その両者の間が抜け落ちてしまう。
それが西多摩になると、滝山城の大石氏と北条氏照を経由して、後北条氏中心の関東の戦国戦乱史に目が開かれる。
高校の時と異なり、滝山城跡の曲輪群をくまなく歩く。
本丸や中の丸からは、多摩川と秋川の合流点が眼下にひろがり、城攻めに武田軍が布陣した対岸の拝島大師も見下ろせる。
それどころか、狭山丘陵の西武ドームや、はるか上越国境の谷川岳(謙信の越山ルートあたり)まで望め、優れた城であることが今でも納得できる。
ただこの名城も、戦略的理由からか、氏照の代に八王子城に引越し、廃城となる。
滝山城の次は、我が高校の跡(廃校)に足を運ぶ。
バスの便が悪いので、戸吹までバスで行き、そこから先は徒歩で峠を越えて、秋川(アキガワ)を渡り、青春の3年間を過した秋留台地に入る。
まず、道沿いの中村酒造(ここの黒い板塀は昔のまま)で「千代鶴」という地酒を(初めて)買う。
高校時代はもちろん飲まなかったが、私にとって大事な土地の酒として味わいたい。
昔と比べて道路と住宅がやたら立派になったものの、高校時代の運動部で筋トレ場だった通称”蛇神社”(白瀧神社)は昔のままだった。
そして、金網で周囲が閉ざされた都立秋川(アキカワ)高校の跡地に達する。
わが3年間を見守ってくれていたメタセコイアの並木がずいぶん成長して立派だ(写真)。
だが、そこに達する入口はない。
こうして柵の外から眺めるだけ。
懐かしさとやるせなさで心の中で涕泣している自分がいる。
小学校には6年、大学には院も含めて9年通ったが、ここの高校3年間ほど濃い思い出はない。
廃校になってしまったということもあろうか。
ただ、全寮制だったことで、地域の人たちとはほとんど接触がもてなかった。
だから風景には締めつけられるほどの懐かしさを覚えても、道行く人たちへはその思いは広がらない。
”懐かしい人”がこの地にいないのだ。
道行く人たちにとっても、わが母校などとっくに消滅してしまっているわけだし。
私にとってこの特別な懐かしさを、この地に対する自分なりの愛を、
地元の人たちと共有できないのがなんとも歯がゆい。