今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

本を読む楽しみ

2015年03月17日 | 雑感

本を読む目的は大きく2種類ある。
1つは情報を得るため(目的1)。
新聞や学術書を読むのはこのためで、私にとっての読書も大半はこれに当てはまる。
この場合の読書は手段であるから、それ自体は苦痛でもある。
ただ、これが読書のすべてではないことも確か。

もう一つは、悪く言えば”暇つぶし”。
良く言えば、読むことそのものを楽しむため(目的2)。
すなわち目的としての、快としての読書。

以前の記事で「読むに値しない本」に言及したが、
目的1では、情報量(=新しい知識)の無い本がそれに当たる。
なら、情報量の無い本はすべて読むに値しないかというとそうではない。
目的2を満たせばそれは読むに値するから。
すなわち書いてあることがことごとく嘘(情報的価値無し)であっても、
それを読んでいる時間が楽しければそれは立派な”暇つぶし”になる。
嘘なのに読むに値する本、それはズバリ小説(創作話)だ。

人はなぜ小説を読むのか。
それは厳密な意味で”事実”ではなく、しかもそう(うそ)だと分って読む。
リアルでないリアリティ(仮想現実)に、あえて騙されるために読む
(創作の存在意義は、「事実=真実+ノイズ → 真実=事実ーノイズ」という移項式で正当化できる)。

これは学術書を読む時の「騙されないぞ」という批判的態度とは正反対(←小保方論文の扱い)。
その学術書は、仕事として、苦行として読んでいる。
だからこそ、効率化を求めたくなる。

一方、小説は楽しみとして読むのだから、すなわち読んでいる時間を楽しんでいるのだから、楽しみの”効率化”なんかしたくない。
実際、あまりに読んで楽しい小説は、読み終わってしまうと寂しくなる。

学術論文は面倒な時は要約(Abstruct)から先に読んだりするが、
小説の要約なんか読みたくない。
トルストイの『戦争と平和』をひと夏かけて読んだウディ・アレン(アメリカの映画作家)によれば、その作品は要するに「ロシア人の話だった」という。
山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)を要約しても、「家康は幼少時から苦労してやっと天下を取って盤石な体制を作った」で終わってしまうはず(読んでない)。

言い換えれば、読んでいるのが楽しくない小説は読むに値しない
(聴くに堪えない音楽は聴くに値しないのと同じ)。

小説はなんで読むのが楽しいのか(苦しくないのか)。
それは、文字を読んでいることを忘れさせ、あたかも映画を見ているか、自分がその世界に入り込んでいる状態になるからだ。
本を読むのは苦しくても、映画や夢を見るのは苦しくない。
映画や夢は現実を忘れさせて、別の感情的世界を体験させてくれる(退屈な生活の者にもスリルとサスペンスを)。

この過程を小難しく言うなら、文字記号の視覚処理の、その処理過程を自覚させないまま、
すなわちタイムラグがほとんどないまま、生々しいイメージ(映像、音声)に脳内変換されている。
これはすごいことだ。
だって明晰な意識状態でテキストを読んでいるのに、
それを意識しないなんて普通ありえない
(眠くなって、文字を読んでいるのを忘れるのはしばしば)。

実際、古文書の解読や難解な哲学書を読むのは、テキストとの格闘以外の何ものでもない。
たとえば、読み下し文でない白文の漢詩を目の当たりにして、
テキストと格闘せずに、表現されている情景がありありと浮かんでくるだろうか。
 歌心のない私は、和歌1つ理解するのに、その31文字と格闘させられる。

文字を読んでいるのを忘れさせる小説には、もちろん読書特有の不自然さ・辛さがない。
やはりこれはすごいことだ。
読書習慣をつけるには、小説から入るといいのは確かで、私自身がそうだった。

なぜ、文字を読んでいるのに、文字を読んでいるのを忘れることができるのか。
文字という記号情報が本来的にもっている力によるのは確かだが
(私が準拠しているメディア論ではこの力の解明が必要だが、ここでは深入りしない)、
最終的には、作家のプロとしての力量の賜物だろう。

一般的な語の組合せで具体的な情景を描写する。
これこそ文字による表現技法の魔力なんだろう。
たとえば、椅子に「座る」という一般的動作を、素人ならそのまま「椅子に座った」と書いてしまうところでも、
表現にこだわるなら、「カウンターの椅子に軽く腰を乗せた」、「ベンチに崩れるように腰を下ろした」、「ソファにゆっくり身を沈めた」と映像化できる動作表現に書き分けることができる。

テキスト表現の可能性と格闘する作家だからこそ、
読者の記号処理を生き生きとした所記(シニフィエ)へ直接変換させる最適な能記(シニフィアン)を選択できるのだろう。

本来なら苦痛となる読書行動を、楽しいと感じさせてくれる著者(作家)こそ、
読者にとってはありがたいし、その技法は学ぶ価値がある。

ここから先は読書行動論から外れるが、
実は私も、そういう表現力を身につけたいと思って、ブログを書いている一人だ。
内容はどうってことない日常の些事でも、表現によって、読むに値する(読んで楽しい)テキストに洗練できるのではないか。
もちろん、それは上っ面の表現技法だけで済むものではない(それも大事だが)。
着眼点や掘り下げ方に価値がなければ、読むに値しないだろう。
誰もが訪れている旅先でも、自分が旅するとこのような表現になる、
そういう人(素人)の旅行記のサイトに魅せられたことがある。
そういう表現者に私もなりたい。