「人を殺してみたかった」という事件が目につくようになって思ったことは、
人にとって最も関心があっておかしくない「死」が、ひたすら隠蔽されている逆説的な現状について何か言いたいということ。
未成年が殺人事件を起こすと、学校は判で押したように、”命の大切さを教える”ことをアピールするが、死を直視せずにそれが可能なのか疑問だ。
私個人は、小学校の時、自ずから勝手に死について考えてしまい、あらゆる誤魔化しがきかない絶望をどうしても覆すことができず、1人恐怖におののくしかなかった。
それ以来、アリ一匹殺すことも避けるようになった。
死の理解は、他者の死の現実を自分の死の想像に置き換え、その自分の死の想像を他者の死の現実に置き換えることによってしか進みようがない。
死んだことがないわれわれにとって、死とはまずは他者の死だ。
中学の時、学年全員が体育館に集められ、警察署主催による悲惨な交通事故の遺体や事故に遭った幼児が死にゆく映像を見せられた時(今ではやらないだろう)、それはショックで見るのも苦痛だったが(失神した女子生徒が出た)、死を直視させられた経験として記憶に残る(トラウマにはならず)。
「イスラム国」によって殺された人質の遺体を学校で見せた教員に非難が浴びせられたが、私はそれをあえて見せた教員の教育的意図は理解できる。
さて、そういう私だから、昔から死を直視するための本を探すでもなく探し続けてきた。
まず、臨死体験関係は、死の手前からの生還者の脳内幻覚の話なので、除外。
『チベット死者の書』はひじょうに生々しい見てきたような死の体験記で、仏教の初七日や49日の意味は分るが、科学的評価には値しない(ただ仏教的死の疑似体験として、一読に値する)。
『死ぬ瞬間』(キューブラー・ロス)は、心理学的には参考になったが、題名から期待される内容ではなかった。
以前書評の記事を書いた『意識障害の現象学』の著者安芸都司雄氏(脳外科医)による『死の体験』(世界書院)を先日読み、これを紹介したい。
といっても氏が記述する死は、他者(患者)の死を医師の立場から体験するものだ。
目の前の患者が死んでいく過程を、前著の詳細な過程の延長として、具体的には、3大死因である脳と心臓の血管障害、そして末期ガンで死んでいく時の過程を患者側の体験として記述している。
これらをまとめて、著者は死の体験を以下の2つの段階に分けている。
第1段階:死そのものの体験。これは死に直面して苦痛と苦しみで我を忘れる状態。
どんな死の体験も苦痛と苦しみから始まるという。
第2段階:意識がない状態(昏睡状態)
すなわち、死にゆくことは人生最大で後がない絶望的な”苦痛”を伴なうのだ。
その後、客観的な死がおとずれる(ここでいう「客観」は私の表現で、著書では「慣習的」な死。現象学をやる人は”客観”を自明視しない)。
その”客観的な”死の判定として、心臓死と脳死の問題にも触れている。
そこを読んで、自分が脳死を正しく理解していなかったことが分った。
脳死は心臓死よりは若干「生」に近い状態と思っていたが、それは昏睡(植物)状態との混同で、脳死こそ不可逆的な現象であり、心停止はそれによって必然的に脳死に至るから死の判定となるのだ。
脳死であれば心臓を動かす神経指令がいかないのだから、人工呼吸器をはずせば心臓も停まる。自然状態では脳死(≠植物状態)で心臓が生き続けることはない。
ただ判定が心臓死に比べると専門的になり、それなりの設備が必要となる。
もちろん、脳死も心臓死も「死の体験」の終了として、第三者が判定する出来事だ(その意味で客観的)。
著者は、目の前で死んでいく他者に結果的になすすべがない現実を通して、死者の向こうの別の他者(イエス、仏陀)との出会いを論じる。
それは安直な”来世”への期待の話ではなく、真に死を見つめる者との出会い、すなわち死を見つめるからこそ生の意味がわかるという視点(孔子がこれを拒否したのは残念)の獲得を意味する。
現象学的視点の書なら、出会う他者はハイデガーであってほしかったが、これはむしろ私自身の課題としたい。
死を自分の死の問題として、誤魔化さず直視すること(恐怖をはじめとするさまざまな不快感情を伴なう)。ここから他人を殺すことの意味(罪)が実感できる思う。