今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

名駅周辺散策:那古野・ノリタケ・豊国

2024年03月02日 | 名古屋周辺

帰京しない週末はもっぱら温泉旅に行っていたため、名古屋とその周辺を訪れる機会を逸していた
(我がブログのカテゴリー別の記事数でも「東京周辺」が207あるのに対し、「名古屋周辺」は本記事を入れてもたった38)
この地にいるのも残り数年なので、これはもったいないと反省し、
行き先が限られた温泉旅を抑制して、地元名古屋とその周辺の散策を増やすことにする。
一応棲み家が名古屋市(の東端)なので、まずは名古屋市内を優先的に巡ろう。

前回は市内の”寺巡り”(→記事)だったが、今回は”地域”を選定基準にして、
現代の名古屋の中心地と言える名駅(めいえき:名古屋駅)にほど近い所(で行ってない所)とする。

まず頭に浮かんだのは、名古屋で最古の商店街である円頓寺(えんどんじ)商店街、
そしてその南に伸びる四間道(しけんみち)
この地は、名古屋発祥の地ともいうべき所で、名古屋巡りの”最初に”歩くに値する所。


例によって「ドニチエコきっぷ」(620円)を買って地下鉄東山線に乗り、
今池で桜通線に乗り換えて名古屋一つ手前の「国際センター」で降りる。
地上に上がった所は、名駅周辺の高層ビル群と名古屋城から流れる堀川(→記事)に挟まれた地。
堀川に並行に北に伸びる道が四間道で、まず浅間神社があり、その先に古い家並みが続く(写真:奇跡的に空襲を免れたらしい)。

この付近は「那古野」という地名だが、現地の住所を示したプレートには「なごの」とルビがふってある。
といっても名古屋は元は那古野であったことは確かで(今の名古屋城にある信長の最初の居城は那古野城)、たぶん上位レベルの地名・名古屋と発音上区別するために「なごの」と変更したのだろう(明治以降?)。

四間道界隈は、江戸時代初期に清洲の商人たちを集団移転させ(清州越え)、名古屋城の城下町を形成した所。
すなわち、那古野生まれの信長が居城を清州に移して以降、この付近では清州が中心地になったが、
徳川の世になって、再び清州から新生名古屋に中心地を移転したということだ。
そういうこともあってここだけなら、むしろ名古屋城と組み合わせて巡ってもいい。


アーケードのある円頓寺商店街に出てアーケードに沿って左(西)に進む(右に進むと名古屋城)。

小さな金比羅神社があり、そこのおみくじは名古屋弁で語られるというので、
100円入れて引いたら大吉で「幸福がやってくるでかんわ」とあり、
失せ物については「間にはさまっとる」とのこと。

商店街名の元となった円頓寺(日蓮宗)は商店街沿いにあって、本堂の鬼子母神が毎月18日に開帳されるという。

せっかくなので商店街で昼食をと思ったが、店のランチ1食分は私には多すぎるので、
商店街から出た大通り沿いにあった100円ローソンでおにぎりを2つ買って、
次の”ノリタケの森”のベンチに座って食べた(写真)。


そのノリタケの森だが、名古屋が世界に誇る高級洋食器ノリタケの本拠地で、
ここの地名が”則武”なのだ。

まず敷地内のウェルカムセンターに入ってノリタケという会社の歴史と業務分野の概要を知る(便器メーカーの TOTOも系列会社だと知る)。
それによると、会社自体は東京が発祥なのだが、名古屋のこの地に工場を建て生産の拠点とした。
さらに洋食器だけでなく、研磨技術やセラミック素材などを活かした工業生産の基礎分野に幅広く貢献していることがわかった(日本碍子(がいし)も系列会社)。

すなわち単なる洋食器メーカーではなく、”物作り愛知”を代表する会社に発展している。

ノリタケを代表する洋食器については別棟のミュージアム(有料)があり、製造工程の見学と体験コーナーを経て、
展示されている美術品の域に達した過去の製品(オールドノリタケ)に圧倒される(写真)。
いずれ文化財として、桃山時代の茶器(瀬戸や美濃)と並んで美術館に展示されることだろう。

ミュージアムショップにも立ち寄ったが、私自身は食器は全て木製にしてあるので、買う物は小皿1つなかった。
※:木製の方が歯触りがいいし、陶磁器は割った時のショックが大きい。


ノリタケの森から少々歩いて東山線の亀島駅から中村公園駅まで乗る。
地上に出ると、道路をまたぐ大きな鳥居が建っている。
道路は参道となっていて、その先にあるのが、豊国(とよくに)神社(写真)。
この地(中村区)で生まれた豊臣秀吉を祀る神社だ。

名古屋が自慢する戦国の”三英傑”、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3名はいずれも名古屋と深く関わりがある(秋の”名古屋まつり”の目玉はこの三英傑のパレード)。

特に信長と秀吉は名古屋(那古野)で生まれ育った。
尤も信長も秀吉も名古屋を去ってしまい、
名古屋の町割を整備し、大都市の基礎を作ったのは岡崎生まれの家康だ。

その意味では秀吉の存在感は名古屋でも比較的希薄なのだが(名古屋の主は織田か徳川)、
地元生まれの庶民だったこともあって、今でもドラマでの秀吉は名古屋弁を話す(例えば上のおみくじのセリフ)。
その秀吉を改めて顕彰しようと明治年間にできたのがこの神社(江戸時代はずっと顕彰できなかった)。

境内には秀吉誕生の地の石碑があり、隣接する中村区立図書館には秀吉と同じく地元出身で家臣だった加藤清正両人の記念館があり、
境内の隣には秀吉・清正それぞれゆかりの寺(常泉寺・妙行寺:いずれも日蓮宗)がある。
加藤清正も独自に信仰の対象となって(秀吉の家臣だったが関ヶ原では家康側に着いたので無問題)、
例えば東京の港区白金にも「清正公」(せいしょうこう)がある

この神社のあちこちに掛かっている絵馬が秀吉にちなんだ瓢箪型(500円)で、
それを記念に購入(私は願掛けをしないので持ち帰る)。
ちなみに神社境内にある食堂は庶民的でここなら利用してもよかった。

中村公園駅からは東山線一本で帰った。
かくして名古屋駅(名駅)を挟んだ(駅からすぐに行ける)名所を堪能した。



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