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ローレン・シュラー・ドナー プロデューサー サイン X-MEN

ヒット映画「X-MEN」のプロヂューサー、ローレン・シュラー・ドナーのサイン。一般的に、映画関係者のサインは、よほど有名な監督などでないと人気はそれほどでもない。このサインも同様である。しかし、私にとっては、彼女があの「セント・エルモス・ファイアー」のプロデューサーであるということに、特別の思いを感じる。20年以上昔、デミー・ムーア、ロブ・ロウ、エミリオ・エステヴェスといった将来の大俳優の若い演技に感動した映画だ。私の記憶のなかでは「プリティ・イン・ピンク」とこの「セント・エルモス…」が対になって記憶に残っている。最近DVDを購入して「セント・エルモス…」をもう一度見直してみたのだが、どこにどうしてあんなに感動したのか良く判らなくなっていた。「セント・エルモス…」はどことなくセピア色の画面を想起させる映画だが、私にとっても思い出深い、忘れがたい映画だ。その映画のプロデューサーのサインということで、少しだけ感慨深いものがあるのである。
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イスラムの怒り 内藤正典

序章のタイトルが「なぜジタンは2006年ワールドカップで頭突きをしたのか?」とある。これを見て、何が何でも読まなければと思った。この一言で本書を読んだ人も多いのではないか。あの衝撃的な事件には誰もが驚き、未だによくわからない謎として胸にわだかまりを抱いたままだったような気がする。これに対して著者は、彼を挑発した選手が何を言い、彼が何に怒ったのか、全ては自明であり、多くのイスラム教徒には謎でも何でもなかったと言い切る。作者のこの点に関する予想はおそらく正しいのだろう。このように本書で説き起こされるイスラム論は目から鱗の感じがするものばかりだ。何か(例えば信仰)を守るのに、人任せにするか、自分から行動を起こすか、そのどちらの道が正しいのかはケースバイケースだろう。イスラムは自分から行動を起こすことの大切さ、しかも他者のために行うことの尊さを説く。いわゆる「ジハード=聖戦」とはそうした「信仰を守ること」そのものであり、それを他者のために自分が率先してやらなければいけない、というのがイスラムなのだという。我々は、悪人を見たら自分で捕らえたり罰したりせず、誰か(たとえば警察)がきっと捕まえてくれるだろう、その後で裁判で裁判官が罰してくれるだろうと思う。それが理性というものだと教えられる。但しそうした考え方が万能かと言えばそうではないかもしれない。自分の責任で自分が危険を冒して自分から何かを守るために行動する、そうしたイスラムの考え方も、ことが信仰に関するものである場合には間違いといえないような気がする。しかも、イスラムの教えはかなり禁欲的であり、それを守ろうとすると非常にまじめな人間になる。世界から「テロリストの仲間」と見られて差別を受けるイスラム教徒が道を踏み外さないよう「差別されてもくじけずにまじめに生きなさい」と教えることは、イスラムのまじめな教えを説くことであり、そうしてまじめな人間になればなるほど、他者のために自己犠牲をいとわない「ジハード」の戦士が再生産されていくという。そうしたメカニズムも初めて知った。それから、砂漠の民→厳しい自然→厳しい掟→残虐な人間性→イスラムという連想は、ずいぶん最近になって西欧のキリスト教徒が植え付けた間違ったイメージだという。最初に相手に敵意を持ったのはキリスト教の方で、決してイスラムの方ではないという。また、因果応報、全てのことには原因と結果があるという考え方について、「神の意志が全て」と考えるイスラムの人には、我々と違う独特の感覚があるのだという。これらのことが十分な説得力を持ってかかれた本書は、非常に多くの点で考えさせられる本である。(「イスラムの怒り」内藤正典、集英社親書)
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