玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近現代史の裏側⒄ ―皇族逮捕の影響から―

2023-12-18 10:54:19 | 近現代史

1945(昭和20)年12月4日、木下道雄の『側近日誌』には、― 梨本宮の自宅拘禁を機に、戦争責任の問題あり、「御記憶に加えて内大臣日記(『木戸日記』)、侍従職記録(注:天皇の行動や言動を分単位で記録)を参考に一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり」とある。―

この日から、昭和天皇崩御後に刊行された『昭和天皇独白録』という名の「昭和天皇に係る一つの記録」の作成のきっかけとなる訳である。その理由は梨本宮の逮捕への驚きと、東京裁判への何らかの対策であることは容易に想像できる。

ところが、記録作成の参考にしようとしていた「木戸の手記(日記)」が宮中の所定の場所に無いのが12月6日に判明した。

【木下道雄『側近日誌』より】

どうも「木戸の手記(日記)」は宮中では誰もが知る準公的な記録になっていたようである。

この日、木戸、近衛の逮捕命令が出た。【次回へ】

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近現代史の裏側⒃ ―天皇と側近の別れ―

2023-12-12 10:35:42 | 近現代史

木下道雄侍従次長は、些か頑張りすぎたのか、約7か月後の昭和21年5月にはお役御免になってしまう。その時、彼は天皇からインクスタンドとペンを賜った。

【木下道雄『側近日誌』より】

これを読んでいて、ふと思うことがあった。

木戸幸一が戦犯で収監される前に天皇との別れの際に「聖上御手ずから硯を賜り」と昭和20年12月10日の件に記されている。

これでは、天皇は硯を木戸にあげて、ペンを木下にあげたら、書くモノがなくなってしまうと思うのは、要らぬお世話というモノなのかもしれない。

敗戦後の一年間に、天皇は二人の古い側近と別れた。天皇にとって「木戸はどういう存在だったのだろうか」と、ふと想った。【次週へ】

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近現代史の裏側⒂―『側近日誌』と『木戸日記』―

2023-12-11 11:06:29 | 近現代史

昭和天皇が崩御されて、湧き水の気泡のように幾つも近現代史の史料が湧いてきた。

一番大きな気泡が『昭和天皇独白録』であろうが、その存在を裏付けることになった木下道雄の『側近日誌』の史料価値も高いと思っている。

先日、木戸日記の上巻を読み返していたら、昭和5年10月に木戸(41歳)は内大臣秘書官長になった時に、当時宮内省秘書課長だった木下道雄(43歳)に会っていたというのを見て、年齢の近い二人の因縁みたいなものを感じた。

『木戸日記(上)』より

木戸幸一は権勢を誇った最後の内大臣であった。

木戸が勲功華族と雖も明治維新の功臣の木戸孝允の血筋にあたるが、木下道雄は帝大を出て内務官僚、後に宮内省に異動し、昭和天皇の皇太子時代の東宮侍従を勤め、終戦後の昭和20年10月に侍従次長に任ぜられた。

11月2日に内大臣府を廃止とし、その仕事は木下侍従次長の隷下となった。この時木戸はまだ巣鴨に収監されていなかった。

見ようによっては、実質的にかなり縮小されたが、木下侍従次長が敗戦後の内大臣の仕事をすることになった、と言えないこともない。たぶん木下はそういう特別な使命感を持っていただろう。【次回へ】

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近現代史の裏側⒁ ―木戸日記への「疑念」―

2023-12-05 10:40:31 | 近現代史

『木戸日記』と『原田日記(「西園寺公と政局」)』は近現代史の中で最も基本的な史料と言えるだろう。

しかし、『木戸日記』は木戸自身を戦犯から遁れる為に極東裁判に提出された資料であった。

木戸は戦犯に指定された時に、すぐさま、東條内閣を推挽したことを一番の問題行為として息子に告げている。

客観的に見て、彼の内大臣の仕事として、最も大きな決断をしたのが、東条内閣を誕生させたことであろう。

木戸の姪の婿が都留重人であり、彼は米国帰りであり、戦後のGHQに友人がいた。

彼の言葉に従って、「自らが無罪なら天皇も無罪である」という論理のもとに極東裁判に『木戸日記』を提出したそうである。

【粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社学術文庫より】

結果として、改竄されたようで、東條内閣の重臣会議の内容や彼の本当の意図は、『木戸日記』は教えてくれないようである。

結局「近現代史」は解らないことだらけである…。(次週へ)

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近現代史の裏側⒀ ―高松宮の「自然の帰結」―

2023-12-04 11:07:25 | 近現代史

東条内閣が誕生した日の1941年10月17日の『高松宮日記Ⅲ』には「…意外にも思ったがよく考えれば、それをそのつもりで考へ居る人には自然の帰結かも知れぬ。…」とある。

「そのつもりで考へ居る人」とは、ある一人の個人を指す場合もあろう。

とすると、最も疑わしいのは木戸幸一内大臣であろう。

『木戸日記』によれば、東条内閣誕生の前々日の15日に鈴木貞一企画院総裁は木戸を訪問し、次の内閣は東久邇宮を陸軍は推挙していると告げた。

そして、翌日16日にも、鈴木は木戸を訪問していた。木戸は「万一日米戦に突入して…予期せぬ結果を得らざる時は皇室は国民の怨府となる」と皇族の内閣に否定的だった。この時に、木戸は既に東條内閣を想定していたのだろうか?

近代の戦争とは、一人では、個人では、小集団でも、起こせないモノであろう。とすれば、ここは「考へ居る人」ではなく、「考えている人々」と解する方が良いのかもしれない。

【参考文献:『木戸日記(下)』東大出版会、『高松宮日記Ⅲ』中央公論社】

(次回へ)

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