玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近現代史の裏側(22)―東條首相誕生のすり合わせ―

2024-01-05 13:47:30 | 近現代史

近衛首相の後任となる筈だった東久邇宮が、開戦論者の東條を首相にしたのか、「その理由が分からない」と言った。

敗戦となって、その「戦争責任」の観点から宮中は説明に苦慮していた。

木下道雄『側近日誌』によると、12月5日、「9月6日御前会議条項の白紙に返せ」との天皇のお言葉がないと、木下侍従次長は天皇に聞いている。天皇は木戸内大臣に説明させたと答えている。

史料上では、『木戸日記』12月5日に、松平侯(内記部長)が木戸邸を訪問している。何を語ったかは書いていない。この時点では内記部長は木下侍従次長の配下になっていた。

多分、東條首相誕生の「筋書き」をすり合わせしたのではないか、と私は推察している。

天皇の戦争責任に直接係る「東條内閣誕生の経緯」は天皇の相談役であった木戸内大臣にも重大事であった。

『木戸日記』が宮中に無い以上は、側近は木戸本人とすり合わせしておく必要があったのではないか。

その結果として、『昭和天皇独白録』の中では次の表現になった。

【寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』文芸春秋】

「木戸をして東條に説明させた」とあるが、「時局極めて重大」であるならば、天皇は、何故、自らの口で言わなかったのだろうか。【次週へ】

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近現代史の裏側(21)―「木戸日記」が証拠となる―

2024-01-04 14:37:25 | 近現代史

少し復習になって恐縮します。1945年12月6日の木戸の日記が無いと宮中で騒いだが、結局見つからなかった。

木戸は12月16日に巣鴨プリゾンに入れられ、12月21日、自動車で芝の服部邸に連れられて主席検事のキーナンらに会って「木戸日記」の提出を承諾した。何回かに分けて検察局へ提出したが、東條内閣誕生の昭和16年分だけは、翌年の1月23日に遅れて出していた。その間に、自らが不利になる箇所は削除または改竄していると思われる。

【『木戸日記 東京裁判期』東大出版会】

木戸は当然写しは取ったと思うが、当時は複写機はないだろうから、どう写したのか解らない。手写しか、写真か、それとも動員筆記か?

一方、宮中では、12月4日に木下道雄侍従次長は天皇と話し合い、「戦争責任については色々お話あり。‥‥御記憶に加えて、内大臣日記、侍従職記録を参考に一つの記録を作り置く」との許可を戴いた。が、その肝心の内大臣日記=木戸日記が無いのである。木戸が日記を持ち帰っていた。

【木下道雄『側近日誌』文芸春秋】

他方、GHQのフェラーズ准将の強い要請があり、その為に宮中に送り込まれたと推察される元外交官の寺崎英成の御用掛就任もあり、翌年の3月から4月までに、4日間5回にわたって昭和天皇から聴取し、寺崎も入れて5人の側近がこれを纏めたモノを作成した。それが昭和天皇崩御後に公刊された『昭和天皇独白録』であるが、その作成時には天皇と5人の側近の手元には『木戸日記』は無いのである。

【寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』文春文庫】

『木戸日記』の本体は既に東京裁判の検察局に渡されていた訳であるが、「写し」はあったのだろうか。少なくとも「写し」が無いと検察局の証拠との齟齬を生じることになる。

随分と面倒くさいことになった。有態に言うと、天皇と側近たちは嘘がつきにくくなった。【次回へ】

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近現代史の裏側⒇―「木戸日記」という贈り物―

2023-12-26 11:04:32 | 近現代史

12月21日、巣鴨拘置所に拘留されていた木戸は、都留重人と一緒に自動車に乗って、芝に行き、キーナンの宿舎を訪問し、食事をご馳走になり、記録(『木戸日記』)の提出を求められ、それを承諾した。(拘留中でも、外に行けるのには少し驚いた。)

『木戸日記・東京裁判期』(1980年初版)より

木戸が乗ってきた自動車や日記の提出は、巣鴨拘置所に収容されていた他のA級戦犯容疑者の感情を逆なでしたのか、彼は孤立した存在であり、「豆狸」というあだ名がついたとか、…。

城山三郎はこの『木戸日記』(上・下、1966年初版)を読んで小説『落日燃ゆ』(1974年初版)を書いている。正確に言うと、東京裁判期は1980年刊行なので、著者は他の史料を使って木戸の人格像を描いたのであろう。

 城山三郎『落日燃ゆ』より

GHQにとって、『木戸日記』の提出は誠に有難い贈り物で、もし無ければ「東京裁判」の結審にはもっと時間が掛かったことだろう。

ただ、天皇にとってはどうだったのだろうか?【次週へ】

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近現代史の裏側⒆―「木戸日記」という商品―

2023-12-25 10:50:50 | 近現代史

『木戸日記』は軍部に従っていたことを示すと同時に、自らが黙認していたことも現れていた。また、特別な扱いを受けていたことも書かれていた。1945年12月16日、近衛の訃報を聞きながら、宮内省の自動車に乗って巣鴨拘置所に行った。

 『木戸幸一日記』東京裁判期より

12月16日未明に自殺した近衛は、11月9日に芝浦桟橋から駆逐艦「アンコン」へ連行された。米国から木戸・広田らも尋問を受けたが、日比谷の明治生命ビルだった。近衛は、戦争を終わらせるキーマンは木戸だと言った。そして彼は「巣鴨に行く」ことを徹底的に拒んだ。

ロサンゼルス・アーカイブスの近衛尋問記録

12月21日、木戸は都留重人と一緒に自動車に乗って、芝に行き、キーナンの宿舎に行き、食事をご馳走になり、記録(『木戸日記』)の提出を求められ承諾した。【次回へ】

『木戸日記・東京裁判期』(1980年初版)より。

 

 

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近現代史の裏側⒅ ―「木戸日記」という楯―

2023-12-19 10:49:14 | 近現代史

12月6日に、宮中で木戸の日記が無いと騒いでいるが、その日は木戸と近衛、二人の天皇側近の戦犯容疑者が発表された日でもあった。

木戸は予てから戦犯を意識していた。戦犯の理由は東條政権成立に積極的に関わっていたかどうかが問題であろう。(この頃から、木戸は日記の改竄を考え始めたのではないだろうか?)

『木戸日記』の最終頁には、姪の婿の都留重人が「ジョセフ・キーナン(東京裁判主席検事)等と会食せしことにつき話しあり」と書かれている。

【『木戸幸一日記(下)』より】

この最終の項(ページ)は削ることもなく東京裁判の資料として提出された。

とすると、木戸という男の知略というか、狡知というモノを感じる。こういう人が昭和天皇の最側近というのも、…。

木戸は収監時は特別の待遇を受けることになる。【次週へ】

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