日本には戦争博物館はないようだが、まあ、あえてあげるならば、靖国神社の『遊就館』であろう。しかし、私はこの館が何をテーマとしているのか、よく解らない。館全体は、日本の古代からの戦争の歴史が展示されている館であり、それが整然と時代順に配置されている。まあ日本人であれば、ほとんど知っている程度のことなので普通は素通りしてしまう。日清、日露と来て、満州事変、日華事変、太平洋戦争と大詰めに向かう。出口間際には戦車、潜水艦、大砲、銃、そして、飯盒や食器、医療器具、サンゴなどの遺留品などが大講堂に陳列されている。そこに行きつく直前の部屋には名刺大の英霊の写真が四方の壁一面に貼られている。そして、そこに続く前の部屋には、召集された兵士たちの自筆の遺書や手紙が陳列されている。検閲されて、黒く塗られているのもあった。
何故か、その部屋の最初の陳列ケースには、自決した将軍たち(本庄繁、阿南惟幾、大西滝治郎)の写真と辞世の句が飾られている。今、考えてみると、この見学の流れは、多くの犠牲者を出した敗戦の責任を自決という形で取った代表として、この将軍たちの自決を先ず導入部に持ってきたのではないか、と考えられる。
この三人以外にも、多くの将軍たちが敗戦を機に自決をした。例えば、杉山元陸相・参謀総長は夫婦で自殺した。田中静壹大将は終戦時のクーデターを未然に防いだ上で自決した。しかし、この三人はそれぞれ別格の理由があるのだろう。
本庄繁大将は満州事変のときの関東軍司令官であった。この事変からあの15年にわたる長い戦争が始まった訳だ。阿南惟幾陸相はポツダム宣言受諾を決定した御前会議の直後に自決をした。ここで一応戦争が終わった訳だ。大西滝治郎中将は神風特攻隊の立案者であったと言われている。彼は自ら送り出した何千人の若い特攻隊員の後を追ったのである。駆けつけた医者には、「生きるようにはしてくれるな」と言ったそうで、遺書には「吾死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」(『昭和史の軍人たち』秦郁彦)とあった。僅かながら、遊就館の戦争責任への配慮の一端がこの陳列の配置に見て取ることができる。少し姑息だが、国自体が戦争責任の説明をしていないのであるから、やむを得ないことだと思う。
選挙で勝ったからと、間髪入れずに結党以来の願望である憲法改正に乗り出す。それなら、日本が何故戦争をし、何故戦争を止められなかったかを、国として明らかにしてから、憲法改正の論議をしてもらいたいものだ。