富国強兵をスローガンとした大日本帝国が二度と戦争をしないために、国民主権と天皇象徴制と戦争放棄の三つの特長をもつ現憲法が造られた。その特長を戦勝国から敗戦国へ押し付けられた枷として捉え、その特長を取り外すこと、言葉だけ残して実体を変えてしまうこと、中身を全く変えてしまうことを企図しているのが、現自民党の憲法改正草案である。
その根底に流れているのは、敗戦国の屈辱感と言う晴らしようのない瘧(おこり)のような歪んだ感情が見えてくる。しかし、この21世紀にあって、誰がそのような感情を持っているのか、その実像や実態が分からない。単なる三代目首相の祖父への憧れなのか、そんな下らない感傷で、これからの若い人たちの将来が操られるとするならば、日本と言う國が、果たして国という括りが必要なのか、という極限まで踏み込んで考える必要があるだろう。
憲法記念日にあたって、新聞に特集された自民党の憲法改正草案をよく見ると、戦後70年の不器用で真摯な非戦の歩みを、白蟻のように支柱から台無しにしようとしているあさましい存念がただ気味が悪いと思う。
今更に天皇制ではあるまいに、今更に馬鹿内閣の緊急政令でもなかろうに、臆面もなく、恥ずかしげもなく、戦前の戦争への落とし穴をまたも持ち出して、時代錯誤にも、戦争産業と言う経済活性化を目論んでいるのか。まさに開いた口が塞がらないというのは此の事を言うのであろう。
いま悲しいことに、日本が世界に誇れるものは、GDPでもなく、先端技術でもなく、優秀で勤勉な国民性でもなく、長く続いた天皇制でもなく、残念ながら、アメリカから押し付けられた平和憲法しかない、と言うのが現実であろう。その押し付けられたとしても素晴らしい憲法を戴いたアメリカ本国が、昨今のトランプ現象を見ると、民主主義には正しい教則本や立派な手本がないというのがよく分る。
憲法は今より良いものなら大いに改正してもらいたい。しかし、今の暗愚で傲慢な回帰主義や、今又時代錯誤の戦争経済への突入を図る死の商業主義の流れであるのならば、一字一句たりとも現憲法を変えない方が良いだろう。