7月18日のブログの続きです。
老人介護施設に入所させていただいた後、母を連れて昼食時に父を見舞う毎日が続きました。
一緒にテレビを見たり、
食事を食べさせてあげたり、
父のリクエストで、コーヒー、サイダー、ジュースなどを買って飲ませてあげたり
昔話をしてみたり
好きな音楽をカセットで聞かせてあげたり、一緒に歌を歌ったり
たとえばある日のことですが、
白目が目立ち、言葉数が少なく、酸素吸入レベル5にしても息苦しそうだったある日
父の好きな「アメージンググレース」を歌ってみると、いつの間にか父もハミングし始め
その後、父が京都で通っていた中学校の英語の先生に教えてもらったアメリカの歌を英語で歌って聞かせてくれました。
ものすごく記憶のよい父に驚きましたが、歌には生命力を奮い立たせるパワーがあることも実感。
その時代(終戦後)は教科書もなく、英語の授業はこのように英語の歌で教えてもらったものだ、ということまで話してくれました。
そのようにしばらくは過ごしていましたが、
だんだん息苦しさが目立ち、
父の方から私たちにも、医者にも 「もうだめ!」と言ったその日より
モルヒネを少しずつ内服し、対処することになりました。
父はその後、眠っている時間が長くなり、
目の力やしゃべる力、食欲も薄れてきたものの、
意識だけははっきりしており、
「また明日来るね」といつも帰る時には、両手を使って、私の手をしっかり握ってくれました。
死の前日は、
私が持ってきたコーヒーを美味しそうに飲み、
その日父のために栄養士さんが作ってくださった葛湯を喜んで食べ、
コロナの隔離でなかなかこれなかった妹と久しぶりに時間を過ごし、
母とも、夜7時頃まで時間を過ごすことができました。
朝、施設から電話があった時はすでに手遅れで、
私たちは父の死に立ち会うことができなかったのはとても残念ですが、
定期的に見回りに来てくださった看護婦さんが、父が息をしていないことを発見したということだったので
おそらくだんだん息が止まり、それ程苦しまなかったのではとは私たちは思っています。
その後の葬儀は父の遺言で家族葬になり、
当事者として初めてのことでしたが、
スムースに執り行われ、
父の遺言だけでなく、喪主である母の意向も反映できたのではないかと思っています。
お通夜と葬儀の時には、
家族の写真やビデオをスライドプロジェクターで流させてもらったのですが、
集まった親戚たちが、思い出話などしながら和やかに会話することもできたのは
私たちにとっての慰めでした。
父は、
何度か私の目をしっかり見据えて
「おかあさんの面倒を見てほしい」と何度か懇願し、
母を残して死ぬことが、一番気がかりだったようです。
私が、それを引き受けるといった時は
何度も泣いて感謝してくれました。
12年介護で苦労させた母のことを、ねぎらうことはできなかったのは父にとっても辛かったと思いますが、
その重荷を下ろすことは、死への準備の一つだったのではないかと思います。
その他にもいろいろ考えることがありますが、
また別の機会に、書いてみたいと思います。