皇太子さまのお仕事は寂しいことかもしれませんが、傍から
お助けするものではないような気がします。
皇太子さまがどこかに行く時に、一緒に行きなさいと言われた時に
行くのが内助の功と思います。(昭和49年)
わたくしが皇室に入ったため
「デパートにも行けぬようになり、ほんとお気の毒ですね」
と言って下さる方がいますが、それはなんでもありません。
初めから覚悟して入りましたから。
(浩宮懐妊中に)
慣習に縛られた閉鎖的な宮中に入ることは、華やかなイメージとは反対に
幾多の困難が待ち受けている事は想像に難くない。
第一の覚悟・・・お慕いする皇太子さま「家庭の幸福」を知って頂くこと。
一般的な家庭を知らなかった皇太子さまに対して、美智子さまが育った
正田家はあたたかい団らんに満ちた家庭だった。
美智子さまは、幸福だった正田家を手本に「あたたかいホーム」を作ることを
決意したのだった。
第二の覚悟・・・「皇室と国民の架け橋になること」
民間出身ということを「弱み」としてではなく強みとして
皇室と国民の架け橋となる存在になることを強く意識された。
庶民の幸福 → デパートで買い物。家族一緒に暮らす。
皇族の幸福 → 国家・国民の安泰
ではないのかなあ・・・・「デパートにいけなくてお可哀想」と言われて「平気よ。覚悟して入ったもの」
と言ってしまう若い妃。
個人的には外商部が来て選ぶ方が私は好きですけどね。
わたくしにはこの結婚の経験しかないので
特に苦労が多いのかどうか比べることが出来ないのです。
(昭和59年 結婚25周年)
皇族に嫁ぐ女性は自分の侍女を一人連れていくことが認められていた。
正田家にも3人の家政婦がいたが、宮内庁は侍女同伴の配慮をしなかった。
美智子さまは文字通りたったおひとりで皇室に入られたのである。
美智子さまを待ち受けていたのは、民間出身の皇太子妃誕生を快く思わない
人々からのいやがらせだった。さらにマスコミからの視線にもさらされることになった。
しかし美智子さまは「皇太子妃」の立場上、「何事も自分の胸におさめる」事が求められた。
美智子さまは孤立無援の中で、ただひたすら「耐える」ことを強いられたのである。
美智子さまの姿勢は、時間の経過とともに反対勢力の心を溶かした。
美智子さまのの側近であり養育係だった牧野純子東宮女官長は、美智子さま
反対派から推されてついた、いわば「お目付け役」で、当初は美智子さまに冷淡な
態度をとることも多かったと言われる。
しかし、その関係性は徐々に変わり、美智子さまの願い出によって、予定よりも長く
女官長を務めるほどとなった。
「平民出」とさげすんだ目でみた一部の人々も美智子さまの謙虚なお心によって時がたつに
連れてファンになっていったのである。
「八方ふさがり」とおっしゃっていたことを忘れたかのようなセリフですよね。
私達、散々マインドコントロールされてきましたが、こういう手法だったんです。
牧野女官長を悪者だと思い込んでいましたわ。
お見送りありがとう。こんな金網ごしでごめんなさい。(昭和50年 沖縄)
(沖縄訪問日程を)終えたお二人が那覇空港に到着した際、お二人の車が突如止まった。
そして美智子さまが降りて見送る人々のフェンスまで歩み寄り「お見舞いありがとう。
こんな金網ごしでごめんなさい」とお声をかけられた。
身の危険にさらされたにも拘わらず、最後まで沖縄の人々を気遣われたのである。
わたくしのような目にあわせてはいけない(紀子様について聖心女子のお友達に)
過去三回の失語症
1回目・・・昭和37年の「聖書事件」
この事件に心を痛められた美智子さまは衆院の言葉に答えられない状態になった
2回目・・・昭和38年の第2子流産
葉山でご静養されていた際、美智子さまはすべて筆談で、おつきの人への指示は
メモを渡していた。
3回目・・・平成5年の誕生日当日。皇后バッシング記事に心を痛めて失声症
美智子さまは難局の中で幾度も失語症になりながらも、人々の前に立ち続けられたのである。
「わたくし」以上の目に合わせているじゃないの・・・ねえ?
それにどんだけ不幸な人生を歩んできたっていうのかしら?
宮中祭祀、マスコミから注目される事、義務を果たすこと。全てが「不幸」ではなかったでしょうか。
一日に一回ぐらいはしっかり抱いてあげてください。
愛情を示す為です。
あなたのことを大好きなヒトがたくさんいるのよ。
自分が投げたものは、なるべく自分で取りにいかせるように。軽く背中を押して
「とってきてちょうだい」と言って下さい。
毎回「背中を押す」事が「自分でやる」事の合図だったんでしょうか?
できるだけ動作で遊んでしまわず、要求を口でいわせるようにしてください。
回りが要求を先回りするのではなく・・・・といいますが、つまり「言葉で」表現するのが
不得意なお子様?言葉が遅かった?
お食事のときは、ご本をあげないように。「ナルちゃんやめなさい」
当たり前のことでしょう。女官が食事時に本を上げるとは思えません。不信感ばかり。
「ながら病はできるだけさけること。靴をはくときなども「靴をはいたらおんもね」と
言いながら
靴をはくことだけに集中させること。
まだ歩くようになったばかりの子が「ながら」をやるとは思えません。これは浩宮が靴をはくときは
御付きが他のことをせず、その事だけをよく見ているようにとの言葉では。
またなぜ靴をはくのかわからない子に対して「靴をはいたらおんもね」というのでしょうか。
一般となんらかわらない普通のものを身につけた上で
皇室にふさわしい特殊なおのを自然と備わるようにしていきたいと思います。
(昭和39年浩宮の誕生日前に)
浩宮さまと礼宮さまとの教育方針が違う
「上の子は将来、非常に自由が制限されるからのびのびと育てる。下の子は
兄よりも多少気分的に楽だから厳しく育てる」
今や立場がまるっきり逆になってしまいましたよね。
そもそも「兄を甘く、弟を厳しく」というのは理に叶った育児法なんでしょうか?
むしり「責任ある立場に立つ子には厳しく」が普通ではなかったかと。
美智子妃が考えたこの育児法に乗ったのは皇太子。
という事は皇太子自身が常陸宮に対して「気楽でいいな」と思っていたのでしょうか。
どちらにせよ、今や「気楽な皇太子と責任ばかり押し付けられる秋篠宮」になってます。
この矛盾を皇后陛下はどう考えていらっしゃるのでしょうか。
細かすぎるナルちゃん憲法の裏側を知りたいですよね。
赤ちゃんは母乳で育て、おむつの取り替えも産着の着せ替えも
母親のすることはすべて自分でやるつもりです。
(浩宮懐妊中、友人に)
浩宮さま生後二か月頃の4月29日の天皇誕生日では、
朝9時35分東宮仮御所出発 → 帰宅は夜の8時50分
計7回の一般参賀出席。
美智子さま → 朝6時、9時に授乳。3回目は女官控室、祝宴後は看護婦が粉ミルク
夜9時に授乳。
出産7か月後には、2週間あまりの訪米が予定されていた。
当時はまだ母乳を冷凍することなど考えられない時代、美智子さまはそれまでに
浩宮さまの離乳を済ませるように育児スケジュールを組まれた。
そして5か月後には離乳が完了したという。
また訪米中は、子守唄をテープに残して留守中に浩宮さまに聞かせるように
侍従に申し送りをされている。
授乳の大変さはわかります。が、その為に「乳母」制度があったのでは?
自分で否定しておいて大変だったーーと言われても。庶民じゃあるまいし。
離乳云々は絶対に嘘だと思います。
生後5か月や7か月といえば、離乳食が始まる時期です。育児書には生後3か月から
果汁を飲ませ、5か月から「ごっくん期」に入るとありますが、マニュアル通りにいくわけがなく
まして母乳で育てているのならなおさら離乳は遅いのではないかと。
完全粉ミルクで育てて、離乳食を食べさせて早くても10か月だと思います。
それを5か月で完了・・・って、要するに母乳から粉ミルクに変更しただけだったのでは?