2001年12月1日 内親王誕生
それを私は東京宝塚劇場で聞いた。星組上演前に英真なおき組長が発表したのだ。私は「やっぱり」と思った。
とにかく私は東宮家には子供が生まれないかも、と思っていたし、生まれても女児だろうと思っていたから。
なぜそう思ったかと言われても勘としか言いようがないし、いうなれば神の手は東宮家には降りないと思っていたから。
堤教授の努力もあり、東宮家にやっと子供が誕生した。それは目出度い事だった。
しかし、またも問題が。
小和田夫妻の行動
両陛下より先に小和田夫妻が病院に駆けつけ、尚且つ記者会見までしてしまったのだ。
小和田夫妻は香淳皇后崩御についても両陛下より先に見舞いに行き、宮内庁に止められている。
親王誕生を見込んでの記者会見だったのかもしれないが、実際は内親王だったのでお通夜のような会見になった。
両陛下を飛び越した事に関しては、美智子皇后は不快感を持ったとされている。
眞子内親王や佳子内親王誕生時には真っ先に両陛下で、川嶋家は一番最後だったし、記者会見などしなかった。
賜剣の儀
生まれてすぐ、沐浴の儀など一連の儀式を経るが、天皇から守り刀を授かる賜剣の儀では侍従が剣を落とした挙句に踏んでしまうアクシデントが発生。どこか不吉な予感がした。
命名
「敬宮愛子」と命名されたが、皇室に詳しい人なら「愛子」(あいこ)と普通に読む事や、これが大正天皇の生母、柳原愛子(やなぎはらなるこ)と同じ名前であることに驚いたに違いない。
皇族の名前は漢字をそのまま読むのではなく、「あて読み」が多い。
「眞子(まこ)「佳子(かこ)」「清子(さやこ)」のように、だから、あまりにも「敬愛されるように」とのこの名づけが非常に軽く感じた。
命名したのは天皇ではなく皇太子夫妻とされているが、本当は小和田家なのではと言われている。
堤教授の失脚
内親王誕生直後、堤教授はいわれなきスキャンダルを起こされて、雅子妃の主治医を止めさせられてしまう。
とりあえず、皇太子夫妻は嬉しそうだったし、それこそ日々見せびらかすようにマスコミの取材に答えていた。
第二子断念に至った背景
東宮家の第一子が内親王だった事で、両陛下と宮内庁は焦りを感じた。
けれど、東宮家はそんな事よりも漸く外国へ行ける事の方が重要に思っていた。
2002年、ニュージーランド訪問の記者会見で
「結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活でも、外国に参りますことが頻繁になっておりまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」
と発言。
・海外に行けるから結婚した筈
・なのに6年も不妊治療優先の生活を強いられた事は嫌だった
そういう意味に取られる。
2003年6月9日、結婚10周年の記者会見において、皇太子はこう言った。
「二人目の子供について質問がありましたが,今後,一人目に至るまでにあったような内外からのプレッシャーを是非とも避けたく,この点につき,よろしくお願いしたいと思います」と無責任な発言をする。
この時、皇太子は将来の皇室について
「時代の要請を的確に感じ取って若い世代の皇室にふさわしい活動ができればと思います。
私は,皇族として,公務というものはとても大切なものと思います。
公務を通して様々な事を知り,国民ともふれあっていきたいと思います。
かねがね私たちは,21世紀の皇室にふさわしい活動ができればと申してきましたが,それは,目まぐるしく変化の大きい今の時代を考えたとき,公務として,自分たちがするのに何が大切かということを見極めることです。
今までの公務も含め,ここでもう一度,私たちの公務についてもそのような視点で考えてみたいと思います。
そして,今後の日本や世界の将来を担っていくことになる若い人たちとの交流を,大切にしていきたいと思います。
また,海外への親善訪問は皇族としての活動の中でも大切なものですので,今後も機会を見つけては諸外国を訪問し,親善訪問の分野でもお役に立ちたいと考えます。」
・東宮の言う「時代の要請」とは何か
・21世紀の皇室にふさわしい活動とは何か。
・公務として自分達がするのに何か大切かというのはどんな意味が?
・若い人との交流は世継ぎより大事かどうか
・海外への親善訪問は自ら行きたいということか。
とても時代の天皇になる人とは思えない発言である。
この時、天皇は身体的にも心理的にも「世継ぎ」がいない事に大きな責任を感じて、夜も眠れない程に焦っていたのである。
しかし、東宮夫妻は自分達の理想を語るだけで少しも先の事を考えていない。
そこで立ち上がったのが湯浅宮内庁長官だ。
湯浅宮内庁長官の最初の発言は2003年6月10日の事。
「やはりもう一人欲しい。国民もそう考えているのではないか」
この発言に雅子妃は非常にお怒りだったと言われている。
怒りが頂点に達したのか2003年12月、雅子妃は帯状疱疹を患って入院。
それでも湯浅長官は負けなかった。
2003年12月
「皇室の繁栄を考えた場合、東宮に第2子を、
秋篠宮家の繁栄を考えた場合、秋篠宮家に3人目のお子さまを強く希望したい」
しかし、この発言は週刊誌によって「秋篠宮家に3人目を」と広められてしまい、さらにマスコミは「お可哀想な雅子さま」として盛り上げた。
もう誰も雅子妃に「第二子を」とは言えない雰囲気になってしまい、週刊誌にはとうとう「雅子さま、第二子断念」の見出しが躍る。
その後、雅子妃は愛子内親王と突然小和田家の別荘に家出し、その後、公務に出られない状態になった。
2004年2月23日の皇太子誕生日会見において雅子妃の体調不良の原因を
「世継ぎ問題のプレッシャーも,また掛かってきたことも大きかったと思います」と発言。
これによって、小泉政権は皇室典範を改正し「愛子女帝」誕生へと舵を切る。
「敬愛される」のは当然で、そのように努力するのも当たり前のお立場。
むしろ国民に「敬愛しろよ」と命ずるかのような名付けですね。
いかにもな小和田家思考の名付けです。
雅子さまの海外訪問への思いからは、皇室外交=海外訪問としか考えていなかったんだな、と感じます。
ロイヤルの世界で招き招かれ、国を体現して社交をすることについて真剣に考えていなかったのでしょうね。
過去に子供が出来たことが有るからこその自信のようにも思えました。
ブライダルチェックも受けていませんしね…
任された医師も入内する前の検査も受けなかった女性に今更ナントカしろと言われてもねぇ?
例え内親王殿下であったとしても、この医師は頑張ったと思います。
平成時代の天皇にすら口答えをし、敬うことをしなかった人ですよ?
自分に執着してメロメロwの旦那さんになど敬う気持ちがある訳がないです。
今でも自分より下座に義両親をどうぞどうぞと座らせる人。
ビックリなのは息子まで一緒にやっている事でした。
誰も何も言えない人、言えば即解雇する人、イエスマンに囲まれて己がどれ程見苦しくても放置されている人。
努力が出来ない人ですので、煩いと感じた人は遠ざけるしかないのでしょうね。
> 敬宮愛子というお名前は、「優雅礼節」につづけるためとしか思えません。男児な...... への返信
しかも雅子さんの妹の子供である2人の男児は◯仁、◯仁という名前だそうです。
びっくりですね。愛子さんといとこ婚させる気じゃないですよね?((( ;゚Д゚)))
かえすがえすも失礼な小和田両親
ネット情報だから、確かではありませんが、長男は池田陸仁(むつひと)さん、次は池田裕仁(ひろひと)さんで、明治天皇、昭和天皇と同じ名前だということです・・・・
((( ;゚Д゚)))
え、マタニティハラスメント?
いやいや、皇族は一般人ではありません。
男の子を産むことを第一に考えなければいけない立場なのに、結果はなんであれ、努めようとしないから言われるのです。
そのために一般国民より贅沢な生活を保障されているのです。
権利と義務、これは皇族に最も当てはまることです。
当時の皇太子夫妻にこの概念が皆無だったことに
むしろ大きな驚きと失望を覚えたものです。
そして、その印象は今でも続いています。
私自身が二通りに読める名で小学校の出席をとられる時、新学年度必ず間違われ嫌な思いをしたからかもしれません。
眞子さま、佳子さまは紀子さまにあわせられたのではと思っていましたが?
清子をはさやこと読むのは難しいですね。
高貴な方は一般の付け方をされないのですか。
読みやすく覚えてもらいやすく書きやすいのが一番と思います。
読みやすいのはいいのですが、他の皇族と被ってはいけないのです。
貞明皇后は「節子(さだこ)」だったので、秩父の宮妃は「節子」→「勢津子」に変更。
愛子内親王の名前は柳原愛子と同じですからまずいのです。
眞子は通常「まさこ」佳子は「よしこ」と呼びます。
昭憲皇太后は美子(はるこ)香淳皇后は良子(ながこ)です。
悠仁親王は偶然北川悠仁と字は同じですが、読みが違いますね。
こういうダブリをなるべくないようにしたのではと思っています。
そして、高円承子さんのお名前は「つぐこ」です。
「他にもニアミスがある」と、読んだことがありました。もしそうなら、高円宮家は一本調子のOWD一家よりも捻って命名した分、頭がいいと言うか、ずる賢いと言うか………