よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

映画三昧 - かくも長き不在 念願のDVD

2018年09月04日 | 映画
今から12年前、このブログを書き始めた頃、この映画の事を書いた。アンリ・コルピ監督の手になるこのフランス映画の秀作を観たのは、高校生の時であった。もう50年以上にもなる。

当時よし坊は、「第三の男」に出ていたアリダ・バリに既に虜になっていた。もう一度会える、そんな気持ちで上映先の新宿アートシアターギルドに急いだのである。

戦争の悲しい爪痕を男と女の二人だけで語らせ、悲劇的な最後のワンショットで映画は終わる。強烈な余韻を残す映画であった。

それから時代は変わり、映画が衰退し、全盛であったVHSビデオもDVDに代わり、こじんまりとした佳作秀作の類であっても、あまり儲かりそうにもない作品はなかなかビデオやDVDにはならない時代となってしまった。そんな今から12年前、日本にいる娘から「こんな映画知ってる?」と来たのである。何やら、テレビの深夜映画のチャネルを回したら、たまたま最後の数分間の場面が映ってインパクトがあったらしい。

それ以来、ビデオかDVDがどこかに売っていないか、日本、アメリカ、ヨーロッパのサイトを調べたのだが見つけることが出来なかった。

先日、たまたまインターネットで名前を入れたら、おっ?となった。アマゾンじゃパンで今年の3月から復刻版を売り出した、とある。早速注文したのは言うまでもない。来年日本へ行ったとき持ち帰れるのだから、こんなうれしいことはない。

それにしても、日本という国は、こういう小技を利かしてくれるところが何とも言えぬ。ニッチを生かす日本の「心」と言うべきか。感謝である。

映画三昧 - マーチン・スコーセシと沈黙

2017年07月09日 | 映画
近年の映画界の画期的なことはCGI、コンピューター・グラフィック・イメージであろう。昔なら、ゴジラ映画に代表される円谷プロダクションの特撮技術は群を抜いていたのだが、CGIの登場で様変わりとなった。

CGIの登場によって、今まで通常の撮影では再現出来ない災害現場のシーンや生身の人間が行けないような現場でもCGIを使っていとも簡単に再現可能となった。迫力満点の画面に我々観客は釘付けになってしまう。

確かに大迫力ではあるが、一方でこうした迫力あるシーンが、実は俳優とグラフィック・イメージを巧妙に合成したシーンに過ぎないことを考えると、何かが欠けているような気がして仕方がない。

CGIは、手が掛り、従ってコストも掛る戦争物などのスペクタクル巨編の製作費を大幅に下げることになり、製作者としては利益を生む”打ち出の小槌”を手に入れたようなものである。その結果、どんなシーンも合成化が可能になったので、普通のシーンも何もない所で俳優に演技をさせ、あとでCGIと合成すれば、現場に行って撮ったような芸当が可能となった。そんな映画を我々は観ているのだ。

ハリウッドの巨匠のひとり、マーチン・スコーセシ。遠藤周作の原作になる、彼の最新作の「沈黙」は、流行りのCGIを極力排除した、20年越しの念願の、こだわりの映画なのである。

敬虔なカトリックのスコーセシが遠藤の「沈黙」に出会ったのは、1989年のことらしい。そして、いつかこの作品を映画化しなければならない、と決めた。問題は撮り方であった。直ぐ頭にうかんだのは、”昔の手法で丁寧に撮る。現場の空気を逃さない”であったと言う。この作品に限って彼は昔ながらの映画作りに回帰したのである。従って当然莫大な費用が掛かる。その為に20年を費やした。

ワンショット、ワンショットを丁寧に撮る。だから単なる夕陽のシーンも気に入ったシーンになるまで何日も待ったと言う。昔ながらの映画屋の撮り方を彷彿をさせるではないか。こうして丁寧に撮ったのが「Silence」沈黙である。

昨今、ど派手ドンパチが流行る中で地味ではあるが宗教的民族にとっては深く思い、貴重な映画だと思う。ハリウッドの辛口評論家が”Silenceは映画史に残る映画と考えてよいだろう”と発言しているは的を得ているような気がする。


映画三昧 - Silence 沈黙

2016年12月05日 | 映画
今年最後を飾る期待の映画は、何といっても今月末に公開されるSilence 沈黙だろうか。この遠藤周作の代表作がハリウッドでリメイクされたのは興味深いことである。

期待の映画、と言ったのは、この映画を観て当地アメリカのキリスト教を信ずる人々がどのように評価する、あるいは感じるだろうか、と言う点に大いに興味があるからだ。

作家遠藤周作がキリスト者として生涯追い求めた永遠のテーマかもしれない。究極の選択のあと、神を捨て絶望に向かって行くのか、それとも、それでも神を信じて希望を探す道を歩むのか。無神論者のよし坊には到底理解しえない世界ではあるが。

かつて松竹製作の篠田正浩の「沈黙」を観た。重要な役割である転びバテレンに、メーキャップを施した丹波哲郎を起用していたが、当時としては簡単にそれなりの外国人俳優を使える時代ではなかったから致し方あるまい。

アメリカでは年々クリスチャンの人口が減っている。本来のアメリカ人のキリスト教離れは深刻で、敬虔なクリスチャンである中南米からの移民によって減少が緩和されているに過ぎず、今後も減り続けることになる。こうした背景の今のタイミングでこの映画が公開されることは大きな意味があるのではないか。

バチカンを含むキリスト教世界の人々にとって、この映画は「問題作」である。

映画三昧 - SULLY(サリー)

2016年09月12日 | 映画
9月に入ると映画もアカデミー狙いの話題作が続々と登場する。先週の金曜日に封切られた話題作のひとつ、SULLY(サリー)を観てきた。見応えのある映画だった。

事件や事故がメディアを通して報じられて我々は初めて何が起きたのかを知るが、それは断片的な場面の切り取りであるから、その後何が起こったのか、真相はどうだったのか、は知る由もない。

2009年1月15日に起こり、「ハドソン川の奇跡」として時のヒーローとなったUSエアの機長サレンバーガー(愛称サリー)とその事故の概要は、他の事件や事故が常にそうであるように、その後数日間続く新聞やテレビ報道で知る域を出るものではなかった。事故の概要を簡単に言えば、鳥の吸い込みによる二基のエンジン停止ーハドソン川に不時着ー乗客乗務員全員救助ーヒーロー機長の誕生 と言う流れとなり、めでたしめでたし、で終わり、そしていつの間にか我々の前から忘れられていった。しかし、事件であれ事故であれ、その真相と裏で何が起こっていたのかを我々が知るのは、その後の裁判や、公的機関による調査、時にはジャーナリスト魂旺盛な記者による地道な資料などによって、漸く分かるのである。この映画は、当時書きたてられた機長のヒーロー話の陰で、機長が直面する苦境にもがいた人間の苦悩の物語である。

サレンバーガー、サリーを演ずるトム・ハンクスがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされる場面から映画は始まる。

映画は、事故調査委員会での”ハドソン川に着水しなくとも、空港に戻れたのではないか”が争点となる。事故の責任の所在で、損害補償の向け先が変わってくるから、機体製造メーカーや損保会社にとっては重大な関心事となる。

検証委員会では、機長の主張する二基のエンジン停止に対し、委員会側から一基は破損していたとはいえまだ動いていたのでは、との提起があり、それに基づいたシミュレーションで、無事空港に引き返せた事を立証しようとする。

サリーは委員会側の主張を否定し、更にシミュレーションそのものの有効性についても疑義を唱える。フライトレコーダーとボイスレコーダーからのデータを機会に入力してのシミュレーションにはヒューマンファクターが無視されている、と主張する。そして、審議の途中で動いていたとするエンジンが回収され完全に破損していたことが報告され、それに基づいたシミュレーションで、飛行機が空港には帰れない事が判明する。

サリーはこの映画で最も重要な一言を言い放つ。「いまだかつて全エンジンが停止した状態で訓練やシミュレーションして成功した者がいるだろうか。全エンジン停止状態はリアルなのである。シミュレーションではない」。この一言は委員会側に突き刺さる。

早々とオスカーレースに登場した感があるこの映画だが、この映画の関係者により興味深いコメントがある。「撮影の最中、映画を指揮するクリント・イーストウッドは立ちっ放しで指揮を執り、主演のトム・ハンクスも彼の傍らで同じように、あたかもイーストウッドの一挙手一投足と息遣いを感じ取ろうと役作りに没頭していた。」

日本で言えば、高倉健の映画に対するあの姿勢であろうか。

映画三昧 - 俳優魂女優魂 二階堂ふみに失望

2016年02月03日 | 映画
今日は観ようと思った映画を観なかった話。

映画を観る時、誰も登場人物やら俳優とその粗筋を頭に入れて観るだろう。よし坊も例外なくそうしている。「この国の空」という映画を観ようと思った。戦争中の題材が少ないこともあるが、二階堂ふみが出ているからである。映画「ヒミズ」以来、この新人女優は将来いいところまで行くものを持っているなと、密かに期待し始めていたのだが。この映画の製作エピソードを読むに及んで、よし坊の期待はすっかり崩れ、観ないことに決めた。この映画だけでなく、彼女の出るこれからの映画はもう観ることはないだろう。

原作があり脚本が出来、配役が決まる。監督がオーケストラの指揮者の如く、序章から終章までを演出する。俳優や役者は監督の意図の元、役を演じるのである。それが演じる者の務めであろう。

脇の下が映るかもしれないシーンが有り、監督は二階堂に腋毛を付けるよう頼んだ(本来なら、ここは”命じた”でなければならないのだが)。当時の女性は殆ど脇を剃る習慣が無かったことによるもで、監督の要求は至極当然で、時代考証を無視したら台無しである。ところが、二階堂はとんでともない、嫌だ、と拒否したそうである。同じシーンの工藤夕貴は快諾したという。これは、単に二階堂が若く、工藤が相応に歳をとっている、という問題ではない。役者精神があるかないか、なのである。役を演じる積もりが無ければ映画に出てはいけない。

テレビのドラマなら、それでもいいだろう。所詮テレビドラマはストーリーの流れを叙事詩的に綴るに過ぎない(もちろん、中には優れた秀作もたまにあるが)。その点、映画は約二時間の中に全てを託して何かを語ろうとする。映画芸術とか舞台芸術は有っても、テレビドラマ芸術とは終ぞ呼ぶに至らない。

場面に映ろうが映るまいが、そこになくてはならないもの、が有るならば当然そうあるべきで、そこに恐らく映像の深みというのも出てくるのだろう。ギリギリまでのリアリティを追及しない映画はどこかで嘘っぽく見えてしまう。映画とはそういうものだろう。

映画三昧 - 長距離ランナーの孤独 と トム・コートネィ

2016年01月25日 | 映画
最近、「45Years」を観た。45年連れ添った夫婦の記念すべき45周年パーティを前にして突然起こった小さな心のざわつきの一週間を静かに描いたものだ。今年のアカデミーの主演女優賞候補にシャーロット・ランプリングがノミネートされていることもあるが、よし坊の興味は夫役のトム・コートネィだ。

久しぶりのトム・コートネィだ。彼を初めて観たのは、高校の時だろう。新宿のアートシアターに「長距離ランナーの孤独」という作品が掛った。悪さを働き少年院に入るが、脚力を買われ軽作業というニンジンを餌に競技会に出させられる。ところが、優勝が視野に入り始めると、考えを変え、わざと負け、彼の優勝で少年院の評判を一挙に高めようとする権力側の思惑に一矢を報い自己の尊厳と独立性を守る話である。この映画を観て、なぜかこの新人役者が好きになった。

ご存知のように、アートシアターに掛かるのは大衆受けしない作品ばかりだから、この映画も映画オタクくらいしか観ない映画だろう。日本での知名度は殆ど無きに等しかったのではないだろうか。次に彼を観たのは、あの「ドクトル・ジバゴ」での革命戦士だった。これ以降彼の作品は観ていないから実に50年ぶりに彼を観たのである。来月79歳、良い顔になっている。




映画三昧 -「鳥」とヒチコックの世界

2015年12月11日 | 映画
久しぶりにヒチコックのThe Birds(邦題・鳥)を観た。アメリカに来た時、当時MGMの版権を所有していたターナーブロードキャスティング(TBS)が一挙テレビ放映していたものをビデオ録画しておいたものだ。

日本公開が1963年とあるので、よし坊は高校一年。鳥の攻撃という意表をついたドラマであることと、ヒチコック作品なので観に行ったと思う。この映画でヒチコックはティッピー・ヘドレンを世に出した。

当時、アメリカとは映画やテレビで観るだけの、遠い存在だったが、今アメリカで観ると、それぞれの場面が近く感じる。例えば、舞台になったBodega Bay(ボデガ・ベイ)。店の看板にそう書いてあるので、ここはボデガ・ベイなのだなと分かる。サンフランシスコより北方に位置するこの小さな町を舞台にカラスを中心とする鳥が町をパニックに落とし入れる。ヒチコックのワンシーン出演は相変わらずである。やはり、この映画は動物を使ったサスペンスの原点でもあり得るのかな、という映画ではないだろうか。

ヒチコックの作品はレベッカ、裏窓、サイコ、そしてマーニーくらいだが、夫々に面白い。

レベッカは”風と共に去りぬ”に出ていたオリビア・デ・ハビランドの妹ジョーン・フォンテーンが出ていることでも興味を引いた。姉妹が日本生まれであることは十分当時のよし坊の興味を倍増したはずである。

サイコのアンソニー・パーキンスの、あの怖さは十分過ぎるくらいの強烈な印象を与えてくれた。この映画を観たら、パーキンスを忘れるものではない。それほどのインパクトだ。

マーニーはティッピー・ヘドレンのヒチコック二作目ということと、007ドクター・ノーで一躍注目を浴びたショーン・コネリーの出演作というので観に行かないわけにはいかなかった作品である。

いつの日か、少なくともヒチコックのアメリカ作品は全部観てみたいものである。

映画三昧 - どぶ

2015年04月29日 | 映画
小さい頃の記憶があった。”どぶ”という奇妙な映画のタイトル、暗い背景、そして音羽信子の顔。それしか記憶になかったのだが、昔から観たいと思い、いつも引っ掛かっていた。

漸く観る機会を得たので、記憶をたどることにした。有難いもので、インターネットで詳細情報が分かる。公開が1954年とある。とすれば7歳だ。どこで”どぶ”に遭遇したのだろうか。製作が松竹か東宝かと思っていたが、新東宝とある。

新東宝には記憶がある。荻窪に常設館があった。アラカンの鞍馬天狗、若山富三郎の人形佐七捕物帳。これらを荻窪で観た記憶がある。もうひとつ観に行ったのが宇津井健のスーパージャイアンツだった。しかし、スーパージャイアンツは1957年以降だからタイムラインとしては合わない。アラカンや佐七が1953-4年頃とあるから、恐らく、それらを観に行った時の予告編に出てきたのだろう。この遭遇しかあり得ないのだ。これで漸く積年のトゲが取れたような気がする。

映画は時代とその背景を映し出してくれる。この映画も戦後の一つの底辺を切り取り、貧しい生まれの娘が泥沼の中で身を売りながら必死に生きようとして悲劇的なシーンを迎える。予告編で観た音羽信子の顔は、この悲劇的シーンのどこかであろう。

映画三昧ーAugust:Osage Countyとメリル・ストリープ 

2015年01月20日 | 映画
メリル・ストリープの映画は、いつ観ても、その演技に感心する。つくづく上手い役者だなと思う。やはり、アカデミー最多のノミネーションに加え、3階のトロフィーを手にしているのが、その証だろう。そのうち、キャサリン・ヘップバーンの4回に並ぶ日が来るのではないか。是非そうなってもらいたいものだ。

August:Osage Countyも見応えのある作品だ。題名の通り、オクラホマのオセージ郡に住む父親の自殺によって集まった家族達の夏の数日の物語である。夫々の生活を背負って集まった娘達と連れ合いや孫、妹夫婦の家族らが交わす会話から、様々な問題がぶつかり合う中で、癌で薬漬けになり精神的にも荒廃していたはずの母親(メリル・ストリープ)が、伊達に人生を生きていない母親の眼力で、夫々が抱える問題の核心を突いていく。

最も印象的な場面は、葬式の晩の全員の会食だ。男どもが思い思いのラフな服装で食事を始めようとするのだが、ストリープ演じる母親が、「そんな服装で死者を送るのか」と一喝する。男達が慌てて上着を手にするのが面白い。恐らく、この場面から、観客はストリープの演技にのめり込むはずである。インパクトの大きい場面だ。

夫の浮気を機に別居している気の強い長女に対しては”丸くなれ”と説く。女好きのダンディな彼氏を連れてきた次女には”ろくでもない危ない男”と喝破して警告を発する。三女が好きになった従兄が実は母親の妹に産ませた異母弟だったことも明るみにでるが、これも既に母親の中では先刻承知の話で、全く動じない。

最後は、新たに得た事実を思い思いの胸に秘めながら、それでも今までどおりの延長線上の日常に皆戻って行くようにみえる。

ストリープに加え、長女のジュリア・ロバーツも熱演である。

映画三昧 - Gone Girl

2014年11月03日 | 映画
話題の映画、Gone Girlを観た。アメリカで日常茶飯事的に発生するMissing(失踪)。そのMissingを偽装利用した妻の夫への復讐劇である。出来栄えのいい映画だ。昨年のArgoに続いての主役ベン・アフレックが良い。しかし、もう一人の主役である妻役のロザマンド・パイクが頗る良い。彼女はいい映画に巡り合えた。恐らく映画、役者共にオスカーの候補に挙げられるのではないだろうか。

5年目の結婚記念日に妻が突然失踪する。捜査が進むにつれて、数々の状況証拠が被害者であるはずの夫に疑惑の目を向けさせ、メディアがそれを加速させていく。夫に不利な状況証拠は、実は妻が用意周到に準備したものであった。妻は夫の不貞を偶然知り、妻の失踪=夫の殺人のプロットを考えだし、夫が逮捕起訴されることを目論んで家を出た。しかし、途中で夫が失踪偽装に気が付き、妻の描いたシナリオが狂い始め、自作自演がばれないようシナリオの修正を余儀なくされていく。拉致監禁被害者が脱出のために犯人を殺して血まみれで生還する、というシナリオに書き換え、見事にヒーローとなるのである。世間は夫婦に平和が訪れたとはやし立てる。夫はすべてが妻の”嘘”であることを見抜いていて、妻と別れることを選択し、妻に告げるのだが、結末は・・・。一言だけ言うと、最初のシナリオ通りになって夫が逮捕起訴されても地獄、最後の結末でも夫は生き地獄。妻は見事に復讐を果たしたと言える。

この国では、妻に無関心な夫には危険が伴う。無関心が過ぎれば、やがて離婚が見えてくる。そしてたった一つの決定的なミス(この場合、不貞)で妻を大胆な殺人者へと駆り立ててしまうかも知れぬ。オトコよりオンナの方が大胆である、そう承知しておこう。

この映画は今年必見の一作だ。