よし坊のあっちこっち

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映画三昧 ー 朱花の月

2013年04月03日 | 映画
河瀬直美監督の「朱花(ハネズ)の月」を観た。彼女の作品は映画というものを毎回再認識させてくれる。あ~、これが映画だな、と。

奈良出身の河瀬は、今回も奥飛鳥の美しい映像を切り取って我々に見せてくれる。冒頭の奈良の山々の遠景の、その大和三山を女と男に見立てた語りは、この映画の物語の枠組みを暗示してくれる。一人の女を巡る二人の男。夫との日常性に厭いた女は、もうひとりの男が突きつけてくれるかもしれない”略奪”と言う非日常性をひたすら待つが、曖昧模糊とした関係が続くだけで、一向に非日常性は訪れない。女の祖母の嘗ての恋をフラッシュバックさせ、この恋が成就しないことを予感させる。

「男が始め、女が終わらせる」。誰の言葉だったか覚えていないが、頷ける言葉だ。恋の始まりは男が仕掛けるが、女と違い、男は優柔不断だ。終わらせる時が来てもズルズルと煮え切らない。男は自分から決断するのを嫌がる動物だ。だから、終わらせるのはいつも女と相場が決まっている。

女は究極の手段でこの恋を終わりにする。女の情念が大和三山を彷徨っているかのようだ。

二時間前後の中でテーマを完結させる映画は、テレビのドラマとは大きく違う。テレビのドラマは連続物にしても単発物にしても、多分に説明的、記述的である。だから観客も素直に筋を追うだけでよい。もっと露骨に言えば、ただ受身でいればよい。その証拠に、テレビのドラマは画面を観なくても声だけ聞いていれば最後まで筋も分かる。たまに、映像なんか要らないのではないかとさえ思う。映画の方は、物語の展開の中で、情景描写だけで観客に何かを語りかける部分があったりして、文章で言えば行間を読まないといけない箇所が頻繁に出てくる。又、時として映像美に魅了されることがある。切り取られた映像が何かを語りかける。だから、画面から離れることが出来ないのだ。こういう事はテレビのドラマでは味わえないところだ。映画の面白さがそこにある。