大学を出て、関西系の大手合繊メーカーに就職したのが1971である。商社に入って海外雄飛を夢見ていたのだが、当時、日経新聞に頻繁に記事になっていた名物社長の多角経営戦略に興味を持ち、大学には募集枠が無かったので直接会社の人事課に電話して入社試験を受けさせてもらい、運よく採用してもらった。
約二か月の地方工場研修を終え、広島の工場に新入社員が集められた。配属先決定通知の日である。名前と配属先が読み上げられていく。よし坊の名前がなかなか出てこないではないか。そのうち、殆どの名前が呼ばれ、え?俺って最後か? と思っていたら名前が呼ばれた。「人工XX開発班 大阪」。聞きなれない部署であった。よし坊の後に技術系の二人の名前が同じ開発班として呼ばれた。
大阪本社の配属部署に初出社し、早速オリエンテーションのレクチャーを受け、部署の全貌が明らかになった。一時代を記した日本の合繊の殆どが海外からの技術導入によるものでオリジナルではなく、入社した会社も例外ではなかった。ただ名物社長の多角化のひとつが、配属された部署の開発製品で、しかもこの会社には珍しい独自技術によるものであった。研究段階を経て企業化の目途がついたので新規事業のプロジェクトチームが発足、よし坊入社のその年10月の販売スタートの準備最中であった。
この独自技術を開発したのが、恩師Kさんである。
約二か月の地方工場研修を終え、広島の工場に新入社員が集められた。配属先決定通知の日である。名前と配属先が読み上げられていく。よし坊の名前がなかなか出てこないではないか。そのうち、殆どの名前が呼ばれ、え?俺って最後か? と思っていたら名前が呼ばれた。「人工XX開発班 大阪」。聞きなれない部署であった。よし坊の後に技術系の二人の名前が同じ開発班として呼ばれた。
大阪本社の配属部署に初出社し、早速オリエンテーションのレクチャーを受け、部署の全貌が明らかになった。一時代を記した日本の合繊の殆どが海外からの技術導入によるものでオリジナルではなく、入社した会社も例外ではなかった。ただ名物社長の多角化のひとつが、配属された部署の開発製品で、しかもこの会社には珍しい独自技術によるものであった。研究段階を経て企業化の目途がついたので新規事業のプロジェクトチームが発足、よし坊入社のその年10月の販売スタートの準備最中であった。
この独自技術を開発したのが、恩師Kさんである。