よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

映画三昧 - 俳優魂女優魂 二階堂ふみに失望

2016年02月03日 | 映画
今日は観ようと思った映画を観なかった話。

映画を観る時、誰も登場人物やら俳優とその粗筋を頭に入れて観るだろう。よし坊も例外なくそうしている。「この国の空」という映画を観ようと思った。戦争中の題材が少ないこともあるが、二階堂ふみが出ているからである。映画「ヒミズ」以来、この新人女優は将来いいところまで行くものを持っているなと、密かに期待し始めていたのだが。この映画の製作エピソードを読むに及んで、よし坊の期待はすっかり崩れ、観ないことに決めた。この映画だけでなく、彼女の出るこれからの映画はもう観ることはないだろう。

原作があり脚本が出来、配役が決まる。監督がオーケストラの指揮者の如く、序章から終章までを演出する。俳優や役者は監督の意図の元、役を演じるのである。それが演じる者の務めであろう。

脇の下が映るかもしれないシーンが有り、監督は二階堂に腋毛を付けるよう頼んだ(本来なら、ここは”命じた”でなければならないのだが)。当時の女性は殆ど脇を剃る習慣が無かったことによるもで、監督の要求は至極当然で、時代考証を無視したら台無しである。ところが、二階堂はとんでともない、嫌だ、と拒否したそうである。同じシーンの工藤夕貴は快諾したという。これは、単に二階堂が若く、工藤が相応に歳をとっている、という問題ではない。役者精神があるかないか、なのである。役を演じる積もりが無ければ映画に出てはいけない。

テレビのドラマなら、それでもいいだろう。所詮テレビドラマはストーリーの流れを叙事詩的に綴るに過ぎない(もちろん、中には優れた秀作もたまにあるが)。その点、映画は約二時間の中に全てを託して何かを語ろうとする。映画芸術とか舞台芸術は有っても、テレビドラマ芸術とは終ぞ呼ぶに至らない。

場面に映ろうが映るまいが、そこになくてはならないもの、が有るならば当然そうあるべきで、そこに恐らく映像の深みというのも出てくるのだろう。ギリギリまでのリアリティを追及しない映画はどこかで嘘っぽく見えてしまう。映画とはそういうものだろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。