ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

〈被害者救済=正義〉に異議あり

2015年04月15日 | 日記

           

                         白樫の枝おろした株に、小鳥が羽を休めています。 

 加害者←→被害者の関係を巡る民事訴訟で最近注目すべき判決が立て続けにあった。

 一つはサッカーボール訴訟。報道によると「バイクを運転中に小学校の校庭から蹴り出されたサッカーボールをよけようとして転倒後、認知症を患い死亡した男性(85歳)の遺族がボールを蹴った当時小学生の両親に5,000万円の損害賠償を求めた」裁判。最高裁まで争われ、子供の側に賠償責任はないとの判決が出た。

 二つ目は、小学5年生だった少年が乗った自転車と歩行者が衝突した事故で、神戸地裁は被害にあった女性(67歳)に対し約9,500万円の高額賠償を命じたこと。

 そして、三つ目は中華料理店「餃子の王将」店内で転倒骨折したのは、店側が滑りやすい床への対策を怠ったためだとして、40代女性客が2,500万円の損害賠償を求めた訴訟。王将側が100万円の解決金を支払うことで和解した、とされる。

 類似の訴訟は、もっともっとあるのだろう。私が驚くのは、その高額さである。いよいよアメリカ並みの訴訟社会が現実化してくると、自分自身がいつどんな事故に巻き込まれるやも知れず、私達は保険なしでは、おちおち暮らしていけないことになる。 

 加害者・被害者の関係で言えば、もちろん被害者は救済されねばならない。しかし上記のような訴訟をみると、単に加害・被害の関係ではなく、なにか別な要素、あるいは社会観念が過剰に絡んでいるような気がしてならない。とくに被害者を救済することが〈至上の正義〉であるかのように振るまうジャーナリズムや法関係者の意識であり、風潮である。

 事故は、加害者と被害者が共有している場所や空間での出来事であり、たまたま不注意や不作為が作用した結果であって、意図して起したものではない。極端に言えば、両者は事故の生起に対して同等に関与しているわけである。一方が全面的に責任を負うものではない。これははっきりさせておくべきことだ。日常生活の中では、袖が触れ合ったからといって喧嘩じみたトラブルにはならない。お互いが「ごめんなさい」といって身を引くのである。こうした生活倫理は、法以上の上位にくる価値であることは肝に銘じておかなければならないことである。 【彬】

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