カリンが実をつけ始めました。
都心でマンション暮らしをしていると、様々な文書が投函されたり、届けられたりする。電気、水道といったインフラ関係から、役所からの高齢者向けサービスやゴミ処理の案内書、各種メーカーや産直の案内、それに特売物や物販物のチラシ。いちいち目を通していたら日が暮れるというものだ。必要なものを振り分けるのも一仕事だが、文書の様式がまちまちで、しかもカラー刷りだったり、要点が不分明だっりして、読み通すのに苦労する。
パソコンを手軽に駆使できるようになり、プリントが容易になったことで、こうした現象が引き起こされている。
ところで現在、政界からマスコミ界隈を賑やかしている、公文書の修正、改竄、紛失といったことも、役所内で文書が氾濫していることが背景にあるのではないかと、推測する。以前、新聞記者まがいなことをしていたことがあって、農林省に出入りさせてもらったことがあるが、管理職以外の職員のデスクには山のようにプリント類が積まれていたことを思い出す。丁度ワープロが行き渡ったころで、今のように保存機能が開拓されていなかったのでなんでもプリントするという時代だったかもしれない。そして管理職といえば他局や政治家との根回しなのか、在席していることがほとんどなく、そして予算も通らない前から、事案の執行を命じていたりしていた。おそらく単年度事業ではなく複数に渡るものを行政の判断として執行していたのだろうと思う。
そうした仕事ぶりから推測するに、今回の財務省の文書改竄問題というのは、パソコンの文書作成能力に依存しすぎて、文書の持つ意味が軽んぜられいるせいかとも思う。現場職員が個々の交渉から会議の逐条全てを文字化する、いわゆる音声の全文起こしができるのも、パソコン由来である。安倍昭恵夫人云々などという部分は、まさしくそれに相当する。文書作成者は一言隻句を文字化することで、充実した仕事をしたと思ったはずだ。
しかし、芸術家へのインタヴューで、ドキュメントを残そうとしているわけではないのだから、これでは公文書にはならない。経緯を簡潔に要約し用語を統一して初めて稟議に回すというのが普通である。しかし回覧されたと思われる文書は手直しされずに通ってしまったようだ。おそらく中間職の人も内容をよく検討しないで上げてしまったのではないか。長々とした文書を読み取る労苦を厭い、しかも他人の書いたものに手を入れるという僭越さに遠慮したのかもしれない。こうして長々とした文面が添付資料として垂れ流されたものと思う。
文書の果たす本質的な役割を軽視し、パソコンに依存することが、文書の氾濫をもたらしてはいないだろうか。保管にしても同じである。書類を取捨選択し、綴じ込めることなく単にホルダーに投げ込むだけで済む。
手書き時代の文書であれば、改竄や修正、削除、それに紛失などというのは簡単には起こりえない。
文書で思い出すことがある。フィリピン戦線に従軍して、奇跡的に帰還した大岡昇平が自分のいた戦線を調べようとしたら、公式な戦記がないと嘆き、ならばと自分でと生存する関係者や現地を訪れて書いたのが「レイテ戦記」である。戦争という最大の国家的行為にあっては遅かれ早かれ必ず公式の戦記を作るものなのだが、日米戦での敗走の中では、満足な戦記が残せなかったのだろう。
公式文書は国家存続の生命線であることを官民共に銘記すべきである。【彬】