東京の花、オオムラサキ
日頃、テレビや新聞を非難し嫌っている人が、自分がそれに出るとなると早朝からでも引き受けるというのが、著名人や文化人と言われている人たちの振る舞いになっていることをよく見聞する。特にSNSが発達した今日、ツイッター上でまくし立てていた人が、なんのためらいもなくテレビ番組に出ているのなど、目にするのだ。
昔、左翼運動が盛んだった頃、テレビ、新聞をブル新と言って蔑んでいた人が、いつのまにか自分をマスコミに売り込んで、記事にしてもらって得意がっていた御仁がいたものだが、マスコミに依存するという習性は、古来消えないのだろう。
一般の人も同じだ。テレビカメラを向けられると喜んで一言二言言って、しかもテレビに出たぞ、見て見てと得意がる。
こうした振る舞いは、人々の耳目を集めることによる満足感が、私たちの生活上の軸にあるからなのだろう。みんな、狼少年になりたいのだ。
芸能嫌いの芸能好き、甘いもの嫌いの甘い物好き、というのも心理的には同じようなものだ。こうした社会心理をマスコミが助長しており、これに無頓着にいるととんでもないことになる。
昨今、財務次官のセクハラ問題が世情を賑わせているが、問題を引き起こしたテレビ局の女性記者は、取材の意味役割も弁えずに、夜の飲食の場に出向いている。セクハラ云々以前の、マスコミが持つ亡霊に記者自らがのめり込んでいるのである。
耳目を集めること、集まってしまうことに真摯でないと、新聞やテレビは計り知れない過ちを犯すことになりかねない。戦争期の煽り記事、慰安婦問題の誤報、などなど。
記者たちは権力の監視者などとうぬぼれてはならない。かつては新聞は人の醜い裏側を嗅ぎつけるゴロツキと毛嫌いされていた時代があったのである。【彬】