ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

夏のターミナル

2018年08月06日 | 日記

夏の花、ムクゲ


 つい先日、入り用があって東京駅を利用した。あまり出歩くことがなかったのだが、その雑踏、変容ぶりにびっくりした。夏は観光シーズンであるので、旅行客が大勢いることは折り込み済みだったが、それでも海外の人を含め、その多様な人たちの賑わいには、かつての東京駅を知る人には驚きであった。
 驚きはなにか。行き交う人の多さだけでなく、東京駅という建物、システムに驚く。先年来、注目を集めている丸の内側の情景を含め、今注目すべきは、反対側の八重洲口の景観だと思う。駅前の大きな広場を、テントを思わせる大きな天屋根が覆う駅前を、長距離バスと、都バスがひっきりなしに離発着している。200メートルはあろうか、天空のテラスから見下ろすと、飛行場の駐機場から、次々に出て行くような、そんな幻想を抱かせる光景だ。
 丸の内側が煉瓦造りで、皇居につながる迎賓の回廊とすると、反対の八重洲口は、人々の生活を背負った交叉路のような光景になっていて、まったく対照的である。
 もちろん、丸の内も八重洲も、中心となるのは鉄道で、新幹線をふくめ、鉄道網はどれだけ、多くの人を運ぶのか。都市の中心はまさしく駅の隆盛にある。地方の衰退は駅の衰退を意味していいると言って良いくらいだ。 
 駅と言えば、映画を思い出す。日本映画では高倉健の「駅」だろうか。ビクトリオ・デ・シーカの「終着駅」も思い出す。さらにはジョンウェインの「駅馬車」も欠かせない。でも、現代の駅は、そうしたロマンチックな思いを粉々にする巨大なシステムである。昔、都市工学という学問が脚光を浴びていたときがあった。都市を問題にするとき、巨大な駅を無視するわけにはいかないだろう。というより、都市のあり方を考えるとき、その中心は駅であるのだ。パリの凱旋門は、今でいえば巨大な駅ではなかったのか。【彬】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする