ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

高校・部活としてのスポーツについて

2018年08月26日 | 日記

    大きな葉の中に、ドングリが実っています。クヌギの木です。

 今年の夏はスポーツイベントの花盛りで、次々とビックイベントが開催されている。そんな中、スポーツの社会的な側面、特に高校スポーツのあり方について思うことがあるので、私はスポーツの専門家ではないが、メモしておきたい。
 まず、甲子園の高校野球。最近いろいろ指摘されるようになったが、この大会は1つの球場で、都道府県の代表校がすべて競技するのを特徴としている。その結果、大会日程が大幅に伸びる。試合のない学校は地元に戻るわけにもいかず、長い間、旅館やホテルに滞留する。この間、ほぼ合宿状態で、その費用は果たしていくらくらいかかるものなのか。
 交通費を含め、選手個人では贖いきれないのは当然で、学校や大会本部が相当部分を負担しているのだろうが、お金の工面がつかない選手も当然いるはず。その手当をどのようにしているものやら。親が借金しているのだろうか。昔は将来プロになるとか優秀さを見込まれた選手は、大学やら、社会人チィーム、あるいはプロ野球球団から資金面の面倒をみてもらうことが半ば公然と行われていたようだ。しかし、すべての選手が一流ではないから、その負担は父兄の重荷になる。大会だけでなく、日頃の練習や遠征の出費も相当のはず。
 費用の問題だけでない。試合を待っている間、まともな練習場はない。試合の当日は甲子園球場での練習時間は15分だったか、ほんの少ない時間しか与えられていない。室内競技ならいざ知らず、フィールド競技でこうした制約など、本来ありえない運営である。
 野球だけではない。各種競技の高校選手権、通称インタ杯は、選手の参加費用をどのように工面しているものなのか。
 また、スポーツ用具の改良も進んでおり、従って値段も高くなっている。その用具代はどう工面しているのか。甲子園出場校の練習風景を映像でチラ見したかぎり、練習ボールに綻びはなかった。ボールの損傷は激しいから、そのボール代だけでも相当な費用がかかっているものと思う。
 昔、スポーツをハングリー精神で捉えようとする雰囲気があった。しかし、成り立ちから言って、暇とお金の余裕がないことには成り立たない活動が、スポーツなのである。今日の隆盛は、だから生活水準が高まっていることの証明でもあって、喜ばしい限りではあるが、その負担に耐えない家庭も多いのではないかと危惧する。
 高校生の部活としてのスポーツは、なるべく費用の負担を少なくしたい。そのための方法は、公式試合を多くすることである。現在、公式というと、甲子園の予選か、国体の予選、インタ杯でしかない。県が予選、全国が本戦と一本化する仕組みが公式試合を制約している。だから有力校は練習試合として、適切な相手校を求めて全国に長期の遠征試合を組む場合もあるほどだ。こうした状況が、費用の嵩みと、選手権試合重視の背景だと思う。
 思うに、近県や地域単位で任意による数校のリーグ戦制度を作ることができないだろうか。それを公式戦として、記録していく。そうした公式戦が制度化されれば、過度な甲子園野球のような愚は避けられるはずだ。地元でのリーグ戦だから費用それほどもかからない。
 私はスポーツが好きである。スポーツの成果は、例えば大谷翔平選手や池井梨香子選手などにみるように、人間の身体能力の、想像以上の向上に寄与していくのである。言って見れば人間の潜在的な肉体能力には、計り知れない可能性を秘めているのだ。そのためにも、もっと気安くスポーツに親しめる環境や施設、そしてよき指導者が求められる。そして、その運営には新しいスポーツ思想が込められていくべきだと思う。【彬】

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