ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

野菜を工場栽培する

2021年09月25日 | 日記

       木に絡み、たくさんの実をつけたムラサキシキブ

 今、60歳台以上の人は実家が多かれ少なかれ農業に関係した職業で、農業が日本を支えたいた時代の子どもたちである。だから農産物がどのように生産され、販売されていたか、その実態を体験として持っている。もちろん私もその一人である。だから果物類は別にして、農産物の品質や価格については、ある程度推測がつく。
 ところでこのところの野菜類、特に葉物の価格の変動は度が過ぎるように思う。例えばレタス、高値は一玉300円以上、安値は同90円とか。しかも出来が一様ではない。一玉300円のものが、巻き大きさが変調で、腑抜けの感じがする。原因は言うまでもなく天候だ。8月に入って雨が多く、露地物が被害を受けたのである。
 作柄が天候に左右されるのは、農産物の宿命だと言えばそれまでだが、今日のような高度な工業社会で、依然として天候に依拠していると言うのは、どこか欠陥があるのではないか、と思わざるを得ない。
 この問題の所在、解決の仕方ははっきりしている。農業を農家から切り離すことだ。ところが農地は農業以外に転用ができないように法律で定められているから、誰も手を出すことができない。戦後の農地改革以来、保守革新とも農業・農家に依拠してきたことが今でも続いているのである。
 昔、東北の篤農家の人と話したことがあって、高度成長期に入ってそろそろ食糧管理法による米価の政府一括買い上げは止めるべき時ではないか、と述べたところ、その社会党系の人に一喝されたことがあった。食糧生産こそ国の要であり、農家の生活を守るためにも絶対に維持すべきだというのである。こうした考えは戦争時の考え方(1942年制定)で、その後も永らく続いた。ムシロ旗を掲げ、国会周辺をデモ行進していた農家の人たちの姿を今でも鮮明に覚えている。
 農業は自由化すべきである。特に農業委員会による農地の支配は廃止すべきである。多少、運用に多様性が生まれているが、税制を含め、農地の優遇は、果てしない。農地を自由に売買できるようにすれば、農業は一変する。都市近郊では農地への大資本の参入で、工業化が一気に進み、葉物類は広大なハウスで電力を使って温度管理がされ、水耕栽培されるようになり、均一な作物が年に二度三度と収穫できるようになるだろう。しかも収穫後の後始末も簡単、価格も一定水準で高品質、高価格で安定するはずである。
 農業というのは労働集約型の季節労働である。農繁期は仕事量が過大だが、農閑期になると、すべき仕事がなくなる。だから、若い働き手が定着できない。その結果、農家は高齢化が進み、後継がいない状態がずっと続いている。それで農業技術研修の名目で外国人労働者に依存するようになっているのも、農業が工業化できないためである。天候や季節性から開放されれば、農業は将来有望な産業になること間違いない。【彬】
 

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