ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

〈ノーマライゼーション〉 ということ

2021年09月07日 | 日記

               曼珠沙華

 オリンピックが終わり、パラリンピックも終わった。ようやく日常を取り戻せた感がある。ついでにコロナも治まると完全なのだが....。
 それで、パラリンピックについて言いたいことがある。
 かつて私は各地のマラソン大会に市民ランナーとして参加していたのだが、ある時期から視覚障害者も出場するようになった。多くのランナーで混雑する中、伴走者のガイドロープを頼りに、堂々と走っていた。ランナーも協力的で、走路を譲ったりしていたものである。以来、伴走者が身につける基本的なマナー、テクニックが膾炙されるようになって、視覚障害者のランナーはもとよりその伴走者も数多くになった。そうした中で、唱えられていたことは、障害者の人達を分け隔てのない扱い、つまり健常者と同じように、同じ大会に、同じように出場できるようにすべきだという主張だった。これをノーマライゼーションと言った。
 今回のパラリンピックをテレビ観戦している時、思ったのだが、世界中から集まった優れたアスリート達は、健常者のオリンピックに出場しても十分に対抗できるのではないだろうか、ということだった。同じ種目なのだから同じように競技すべきではないのか、と感じたのである。
 例えば、マラソン。優勝した弱視のランナーは、健常者と同じように競っても十分勝敗を分かち合う選手だったのではないか。もちろんハンデがあるから、その分、キャップをつける。例えばハンデの分だけスタートを早める。そしてゴールを競う。トラック競技も同じ。ゾーンは、9レーンでは少ないなら、10とか11にして、健常者と同じように競技する。卓球やバドミントンなら、健常者に比べ、ゲームポイントの点数を少なくすればいい、などなど。
 いろいろな競技の中では、私は特に車椅子ラグビーに興味を持った。この競技は障害の重さを基準にティームハンデを条件にしている。出場選手のトータルハンデを集計し、一定程度を超えないようにしているのである。ならば健常者も車椅子に乗って試合に参加すればいいのではないか。そうすれば障害者の意欲もさらに高まるのではないか。
 障害者たちは今や、トライアスロンなどにも挑戦するようになっている。だからどの競技も健常者と一緒に競えあえるのではないか、と思う。全てノーマライゼーションである。
 その上で私はパラリンピックは廃止すべきだと思う。オリンピックそのものを変え、パラリンピックを吸収すべきではないのか、と思う。私は言葉の専門家ではないので、言葉の由来・意味が十分に理解できないのだが、パラリンピックのPARAという接頭語表現に違和感を覚えるのである。オリンピックにくっつけた、下位のイメージがするのである。今オリンピックは男女同権で男女に種目の違いがない。なら障害者のスポーツでも同じだ。共生社会などというパラスポーツが掲げる美辞麗句に惑わせられてはならないと思う。【彬】

 

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