竪穴住居を復元した内部の様子。中央にカマド
長野県の塩尻市・平出遺跡および平出博物館に行ってきた。この遺跡は縄文中期とみられる竪穴住居跡が300弱、土器類も多数発掘され、かつては日本三大遺跡のひとつとされたところである。
私たちは縄文期というと、縄文土器でしか知らない、弥生時代の前のほとんど架空のような時代である。そんな遺跡を見学し、考古学にまったく素人の私が感じたことを素直に述べてみる。
①縄文時代の長さ
縄文期は今から15,000年前から5,000年前くらいの期間だとされている。その間、およそ10,000年。奈良時代でさえ、1,500年前だから、その古さは想像を絶する。そして一時代の長さというと、洋の東西の文明を通してもせいぜい300~500年くらいである。ところが縄文期はおよそ10,000年も続いているのである。
この時代の長さを頭に入れておかないと、まったくポイントをはずした理解になろう。たとえば土器や遺跡の遺構はせいぜい2~3世代のことしか語らないのだ。
平出遺跡では壊れた土器などを捨てた遺構が発見されている。つまり、何代かの変遷の中で、古い住居がゴミ捨て場になって、歴史を刻んでいるのである。遺跡を理解するためには、相当に長い時間軸を持って接することが重要だ。
②土器の使用目的
発掘された土器からその文様や形を読み、宗教や催事に関係したのではないか、と一般的には説明されている。しかし、それは二次的な問題であり、土器にどのような生活の名残が残っているかを見るべきである。わたしはまず火に曝したかどうかを見るべきだと思っている。幸い幾つかの土器にはススが残っていて煮炊きに使ったことが推測されている。それにしてはその名残は微かだ。薪をくべ、熱く熱したはずだから、どの土器もススで黒焦げになっているはずである。
また、煮炊きをするにしては深鉢すぎる形態が多すぎる。私が思うに、採掘された多くは貯蔵用や飲料用だったのではないかと思う。そして煮炊きには現存していないが、平鉢のようものが使われたのではないか。
③食料
狩猟採集が基本だとされているが、疑問が多い。
近年、照葉樹林文化が提唱され、亡くなられたが、中尾佐吉、佐々木高明氏らによって、焼畑栽培の可能性が指摘されている。そして水晒しなどによる食物の「あく抜き」に注目している。狩猟採集では定住生活は長くは続かない。しかし縄文期は、スケールの大きな定住生活なのである。
④竪穴住居
住居跡は半径2メートル前後、本当に狭い場所に、茅で屋根を葺いている。中央にカマド。こんな場所で煮炊きをしたらススだらけになって、窒息する。おそらくカマドは暖房用で、せいぜい湯などを沸かしすくらいではなかったろうか。
煮炊きは、住居の外、場合によっては共同の炊事場があったのではないか。
縄文期が想像を絶するほど長期にわたり栄えたのは、共同の炊事があり、食料に欠くことがことがなかったからではないか。
⑤縄文人の来歴
縄文人はどこから来て、どのように滅びたのか。
「照葉樹林文化とは何か」(中公新書)の中で、環境考古学の安田喜憲さんが重要な指摘をしている。
人類は氷河期の終わり頃、アジアでは、東シナ海で海面が相当に上昇し、大規模な民族移動が起こり、奥地へ奥地へと押し込められていったという。縄文人が長野や中国地方の高地に多くの遺跡を残しているのは、この温暖化による民族移動の結果だとも言える。そして縄文文化が滅びたのは鉄を持った弥生人に征服されたという説があるが、本当は同じような気候変動による寒冷化で、高地での生活ができなくなったからだろう。温暖化と寒冷化の周期と縄文時代はほぼ一致するようだ。
などなど。【彬】