ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

稲はどのように食べるのか

2016年05月26日 | 日記

    ドクダミは名前とそぐわない草だ

 毎年、この時期になると子供達に田植えを体験させるイベントが伝えられる。泥田に入ってはしゃいでいるのが、現代的である。

 そんな中、私は収穫した稲が食べられるまで、どのような工程を踏むのか気になっている。特に籾摺り工程。籾摺りというのは、籾=もみ(殻付きの稲穂のこと)から殻を取り去ること。

 今では、コンバインで刈り取りから籾摺りまで、一気に処理してしまうので、稲をどのように刈り取って食べられるまでに加工するか無知な人が多い。私たち戦前生まれの人でも、知らない人が意外に多いものだ。

 刈り取りからの工程を簡単に説明すると、刈り取った稲は乾燥するために稲架(はさ)に掛ける。十分に乾いたら穂から脱穀する。この機械を千歯こき、と言った。櫛を逆さにしたような金属の歯で籾を引き千切るのである。そしてこの籾から殻を外す。この工程が籾摺りで、これで玄米となるのである。麦やアワなどの穀類は、脱穀の段階で自然と殻が外れるので、この籾摺りが必要ない。米は殻がキッチリ包み込んでいるため、これを外すのが難事なのである。私たちが子どもの頃、目にしたのは、臼による摺りである。溝のついた臼を回転させ、殻を外すのだ。戦争中は一升瓶の中で棒で突き外したなどと、本当らしく伝えられたりした。

 苗から稲穂を稔らすのも大仕事だが、このように米を食べるようにするためにも大変な手間がかかるのだ。麦に比べ、はるかに大変なことなのである。

 そこで思う。田植えから始まり、これほどまでして、日本人が米を尊重するのはなぜなのだろうかと。一説によると、米の生産性(反当たり収量)が、ヒエやアワ、ソバ、芋類に比べ、かなり高いからだという。しかし投入労働量を考えらば、眉唾だ。米の食味を指摘する人もいる。しかし美味いかどうかは、歴史的な食習慣が決めるものだから、これもあてにならない。

 弥生時代以来、私たちは米由来の生活文化で生きてきているが、なぜ米なのか、もっと掘り下げられていい。【彬】

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする