ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

縄文平出遺跡と日本タンポポ

2016年05月09日 | 日記

   

  長野県塩尻市の平出遺跡に行ってきた。山の裾野の台地に縄文期の遺構が数多く発見発掘され、そこが整地され広々とした公園となっているのである。

 当時の住居も7棟、想像・復元されている。しかし見学者は誰も見当たらない。

 そんな風景の中に立ち、思うことは多々あったが、最も印象的だったのは、タンポポの群生だった。

 日本のような、雨の多いところでは、台地での植物の群生というのは、ある特定の条件の元でしか成り立たない。例えば台風の大雨で台地の表土がすっかり流されてしまった後とか、急激な温度や湿度の変化で、特定の植物しか生き残れなかったとか、など。ところが、この平出の古墳跡は、整地がされ相当に年月が経ち、それほどの環境変化があったとは思われないのに、タンポポが群生しているのである。それが驚きである。しかもそのタンポポが、都市近郊では西洋タンポポにほとんど駆逐されている日本タンポポなのである。私が訪れたのは5月の初旬だが、既に綿毛を飛ばしているタンポポがあるものの、なお咲き誇っているものが無数ある。

 私には、不思議な光景に思えた。消滅した文明と消滅しつつある植物群の稀な出会いが、なにか語りかけるものがあるように思えるのだった。

 日本タンポポと西洋タンポポの違いは花びらを支える額のあり方にある。日本タンポポは額は綿毛を飛ばすまでしっかりと閉じているのに対し、西洋タンポポは額を開いた状態で咲く。下手な絵だが、左が日本タンポポ、右が西洋タンポポ。

 縄文遺跡についてはまた改めて。【彬】

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新緑の候、野草が美しい。

2016年05月08日 | 日記

 風薫る5月。新緑の美しい季節。

 以前、ランニング練習で公園や自然の中を一生懸命走っていた頃は、遠く、森や林に視線が向むいていた。最近は、スローランニングを楽しむこともあり、視線はひとりでに道端に向く。野草というか雑草というか、極めて多種多様の草花を観る。これらを観察するのが実に楽しい。 

 道端での植物観察に興味を持ちだしたのは、昨年まで住んでいた茨城時代から。ランニングコース沿いには、フキノトウ、ツクシ、稲の花、秋には、アケビの実がぶら下がる。東京に戻ってからは毎日最寄り駅から自宅に続く道を歩く。それに沿い帯状の空き地が伸びる。ここできわめて多種の野草が観られる。ところが名前の知らないものが多い。庭にあるような花や植木は知っているが、これら野草には疎い。空き地の圧倒的多数の植物はこれら野草・雑草の類なのだからもう少し知識を持っている方が楽しい。よく見るとこれらは個性的で美しい。

 ところで、大きくキレイな花は、昆虫の手助けで受粉するものが多いだろうが、小さな野草の花は風による自家受粉が多いと思う。何か人間臭いところがあり面白くもある。キレイな女性は虫がつきやすい、ということで。

 NHKの朝ドラ、「トト姉ちゃん」。帝大の植物分類学を研究する学生が新種の植物を求め奮闘する。5月6日放送で、ゼラニウム・カロリニアムという外来種を国内で新発見するか、のシーンがありました。これも言うなれば野草・雑草ではないでしょうか。新種の発見、分類、という地道な学問はこのドラマのようなところがあるのかと興味深く拝見しました。

 そんなことで「道端の野草・雑草」観察しながら、最近は植物以外でも自分の身の回りで、普段は見過ごしているが知ると楽しいことが沢山あるのではないか、と思うようになっています。

 絵は最寄り駅から自宅までの、野草に覆われる空き地の風景。

      2016年5月7日  岩下賢治

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避難所に発電所を

2016年05月01日 | 日記

      

             オオムラサキを描いたのだが、まったく手に負えません。

 今回の熊本地震もそうだが、大災害の時に一番必要なのは電気ではないか、と思う。

 文明社会では電気がすべてのエネルギーの基となっている。深夜の明かりは言うに及ばす、通信や交通、機械を動かすにも、今日では火ではなく、電気に変換されたエネルギーが社会の根幹を支えるようになっている。ところが、この電気は遠方で起こされ、電線で送られてくる。電線が切れてしまえばおしまいなのだ。そして大災害の被災地では、たいがい送電線が切れてしまっている。

この事態をなんとかできないのだろうか。

 夢みたいな話だが、電気が宇宙空間から無線で送られてくる時代が到達するまで、各地に小型の発電所を作れないだろうか、というのが私の思いだ。大きな発電所では高圧の電磁波が流れるから、健康に害が及ぶが、小型の、限られて区域用の発電所なら問題はなかろう。場所は、地域に指定されている避難所だ。多くの場合、学校がそうした場所になっているので、校庭の地下に発電所を設け、通常は学校の電力として使い、各種学校行事や地域のイベントにも活用する。

 問題は電源だ。原油か、太陽か、水か、あるいは原子力か。原子力も大学の研究用に小型のものが活動しているから可能だ。

 私はその筋の専門家ではないので、どうこう言えないが、こういう施設の建造については、優れた技術者達なら容易いことなのではないか。そして、その運用は消防署が管理監督すればよい。学校の耐震強化と並行して、発電所を作る計画があってしかるべきではないのか、、、思いつくままに。【彬】

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