「居眠り磐音 江戸双紙」
佐伯先生の新展開に向けてのインタヴュー記事。
繰り返し、何度も読んでいます。
31巻が大きな山場になるんだな・・・という中で。
気になること。
判らないこと。
でも、何となく解ること。
どうしてもこだわってしまう事。
自分の中にだけ納めて置けないことを、書いてみようかと思います。
あくまでも私個人の感覚ですので・・・ご了承ください、ませ。
例えば。
ものすごく気に入っている本があって。
文章暗記できちゃうくらい何度も読んでいる作品で。
それが幸いにも世間でも人気のある本で。
で。
映像になる、と判ったとき。
わたし。
大概、非常に強い拒否反応を起こします。
『本を読んで自分の中に出来上がっている世界を壊されたくない』
ただ、この1点のみのために。
そして。
映像化された作品が高い評価を得ていたとしても、
観ないんです。
とことん、避けます。
でも同時に。
逆パターンもあります。
そのまま、ぴたっと嵌れば、それまで知らなかった作家さんにのめり込むってこと。
「陽炎の辻」は私にとってはこちら。
完全に初めに「映像ありき」でした。
そこから原作にのめり込んだ典型的な例。
加えて今じゃ、主役にものめり込んじゃってますけど、ね(こっちはかなりめずらしい例/笑)
でもね。あえていいますけど・・・
初めに「山本耕史ありき」ではないのです。
初めは土曜時代劇「陽炎の辻」なんです。
(「木曜」でもないんだよね。私って・・・)
その世界がぴたっときたから原作に興味を持った。
そして原作を読んでみたら、ますますピタっときて、
映像も文章も両方ともが更にとても大切な作品になった。
山本耕史演じる坂崎磐音があまりにもハマっていたっていうのは確かに大きいと思う。
原作を読んで、全く違和感がなかったのはびっくりした。
文章の合間に見えるひととなりがぴったりだったから。
そして耕史くんファンということでTVを観始めて、
そこから原作も読もうって思って、
今は両方とも大好きだ!って人たちも大勢いらっしゃると思う。
それで、ですね。
つまりくだくだ書いたけど、要するに・・・・
そういうきっかけから原作に行った人たちを、
元から原作が好きな人たちと分けて捉えないでほしい・・・・
ってことが言いたいのかな、といま気が付いた(^^;)。
映像作品や贔屓の俳優さんから原作に入った人たちも、
最初原作を読んで気に入った人たちと同じだと思うのです。
「この作品が大切だ、大好きだ」って想いは。
本を手にしてその作品世界を楽しむ。
それは入口がどこであれ、文字で表す世界をとても楽しめるってことでは同じじゃないか、と思うんですよ。
若い女性でも私みたいなおばちゃんでも同じだと思います。
男性だって同じ。
文字で描かれた世界に浸る。
それは結局その一人ひとりの中に作品の世界が出来上がって、
それをとても楽しめるってことだから。
佐伯先生にわかってほしいなあ、と思うこと。
山本磐音→坂崎磐音な私だけれど、原作もとても大切に思ってるんですよ、ということ。
そして喩え山本磐音=坂崎磐音として頭の中で読んでいるとしても、
それでもやっぱり原作は原作としての魅力があるから読んでいる。
決して映像にひきづられて読む訳ではないんです。
0が2つくらい違う場所から入った読み手も、もう少し信じてほしい。
文章に魅力が無ければ30冊も読みません。
物語に吸引力がなければ、30冊も続きません。
まして、再読なんてしません。
功罪。
罪の部分。
先生の本意でないところもあるのでしょうけれど、、
でも。
結局読む媒体はすべて、読まれた時点で読み手の想像力に世界観はゆだねられる。
作者の思い描く世界と読者の思い描く世界は絶対同じにはならないんだもの。
ま、原作者が映像に引きづられたらだめだ、とは思うけれど、
原作のみを愛している読者さんたちにだけでなく、
私みたいな入り方の読者にも分け隔てなく、どうか次回作を描いてください。
いいライバルってことかな。
山本磐音と坂崎磐音。
ひとりだけどふたり。
2つだけど1つの世界。
映像と文章。
この2つが馴れ合わずお互いに高めあっていかれたら、いいね。
(例えば、「鬼平犯科帳」のように・・・・・・)
シリーズ31巻。
別れと誕生(?)。ふたつ同時に期待してしまったらいけないかな。
佐伯先生の新展開に向けてのインタヴュー記事。
繰り返し、何度も読んでいます。
31巻が大きな山場になるんだな・・・という中で。
気になること。
判らないこと。
でも、何となく解ること。
どうしてもこだわってしまう事。
自分の中にだけ納めて置けないことを、書いてみようかと思います。
あくまでも私個人の感覚ですので・・・ご了承ください、ませ。
例えば。
ものすごく気に入っている本があって。
文章暗記できちゃうくらい何度も読んでいる作品で。
それが幸いにも世間でも人気のある本で。
で。
映像になる、と判ったとき。
わたし。
大概、非常に強い拒否反応を起こします。
『本を読んで自分の中に出来上がっている世界を壊されたくない』
ただ、この1点のみのために。
そして。
映像化された作品が高い評価を得ていたとしても、
観ないんです。
とことん、避けます。
でも同時に。
逆パターンもあります。
そのまま、ぴたっと嵌れば、それまで知らなかった作家さんにのめり込むってこと。
「陽炎の辻」は私にとってはこちら。
完全に初めに「映像ありき」でした。
そこから原作にのめり込んだ典型的な例。
加えて今じゃ、主役にものめり込んじゃってますけど、ね(こっちはかなりめずらしい例/笑)
でもね。あえていいますけど・・・
初めに「山本耕史ありき」ではないのです。
初めは土曜時代劇「陽炎の辻」なんです。
(「木曜」でもないんだよね。私って・・・)
その世界がぴたっときたから原作に興味を持った。
そして原作を読んでみたら、ますますピタっときて、
映像も文章も両方ともが更にとても大切な作品になった。
山本耕史演じる坂崎磐音があまりにもハマっていたっていうのは確かに大きいと思う。
原作を読んで、全く違和感がなかったのはびっくりした。
文章の合間に見えるひととなりがぴったりだったから。
そして耕史くんファンということでTVを観始めて、
そこから原作も読もうって思って、
今は両方とも大好きだ!って人たちも大勢いらっしゃると思う。
それで、ですね。
つまりくだくだ書いたけど、要するに・・・・
そういうきっかけから原作に行った人たちを、
元から原作が好きな人たちと分けて捉えないでほしい・・・・
ってことが言いたいのかな、といま気が付いた(^^;)。
映像作品や贔屓の俳優さんから原作に入った人たちも、
最初原作を読んで気に入った人たちと同じだと思うのです。
「この作品が大切だ、大好きだ」って想いは。
本を手にしてその作品世界を楽しむ。
それは入口がどこであれ、文字で表す世界をとても楽しめるってことでは同じじゃないか、と思うんですよ。
若い女性でも私みたいなおばちゃんでも同じだと思います。
男性だって同じ。
文字で描かれた世界に浸る。
それは結局その一人ひとりの中に作品の世界が出来上がって、
それをとても楽しめるってことだから。
佐伯先生にわかってほしいなあ、と思うこと。
山本磐音→坂崎磐音な私だけれど、原作もとても大切に思ってるんですよ、ということ。
そして喩え山本磐音=坂崎磐音として頭の中で読んでいるとしても、
それでもやっぱり原作は原作としての魅力があるから読んでいる。
決して映像にひきづられて読む訳ではないんです。
0が2つくらい違う場所から入った読み手も、もう少し信じてほしい。
文章に魅力が無ければ30冊も読みません。
物語に吸引力がなければ、30冊も続きません。
まして、再読なんてしません。
功罪。
罪の部分。
先生の本意でないところもあるのでしょうけれど、、
でも。
結局読む媒体はすべて、読まれた時点で読み手の想像力に世界観はゆだねられる。
作者の思い描く世界と読者の思い描く世界は絶対同じにはならないんだもの。
ま、原作者が映像に引きづられたらだめだ、とは思うけれど、
原作のみを愛している読者さんたちにだけでなく、
私みたいな入り方の読者にも分け隔てなく、どうか次回作を描いてください。
いいライバルってことかな。
山本磐音と坂崎磐音。
ひとりだけどふたり。
2つだけど1つの世界。
映像と文章。
この2つが馴れ合わずお互いに高めあっていかれたら、いいね。
(例えば、「鬼平犯科帳」のように・・・・・・)
シリーズ31巻。
別れと誕生(?)。ふたつ同時に期待してしまったらいけないかな。