私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
昨日の
《・・ フォークから出発し、ロック、ポップス、シャンソンと幅広いジャンルをたどる中で、
「昴―すばる―」、「群青」、「いい日旅立ち」など、
一時のヒットにとどまらず、国境や時代を超えて、
老若男女に愛されるスタンダードナンバーを多数残した。
壮大なスケールの曲から故郷の原風景や旅情をうたう曲まで作風はさまざまだったが、
音楽人生で一貫して大切にしていたのは、さまざまな形の愛をうたうラブソングだった。
【写真】歌手で活動を始めたころの谷村新司さん
音楽の原点は、青春時代のコンプレックスという。
書籍「わたしの失敗Ⅱ」によると、
小学3年生までは成績優秀、運動も得意で、同級生の間で人気者だった。
しかし次第に体重が増加。
中学時代、「楽器が弾けたら、女の子にモテるかも」
とギターを手にしたのが、全ての始まりだった。
1972年のデビュー当時、
フォーク界を席巻していたのは、岡林信康さんや吉田拓郎さん。
彼らが先鋭的な若者の文化や社会への批判をうたって、大衆の熱狂的支持をつかむ中、
谷村さんは、最初からラブソングをうたった。
デビュー曲「走っておいで恋人よ」も、「軟弱だ」などと評された。
だが、音楽評論家の富澤一誠さんによると、
「その後も、故郷への愛をうたった『サライ』や、
旅を愛する心情が投影された『三都物語』に代表されるように、
男女間に限らず、人間、四季、地球など、さまざまに形を変えながら愛を表現した」と言う。
谷村さんの愛は、周囲の人々への配慮にも表れていた。
自身がホスト役を務めた音楽テレビ番組では、毎回ゲストを招いてデュエットしたが、
「相手にキーを合わせるなど、いつも最大限の心配りをしていた」と番組関係者は証言する。
また、2007年から毎日新聞の小児がん征圧キャンペーン「生きる」にも共鳴し、
長年出演を続けた。
参加動機について、当時インタビューで、
「私の大切な音楽仲間、森山(良子)さんが始められたと知り、とても感動しました。
病気と闘う子どもたちや支えていらっしゃる人たちへの応援として、
『歌』がお役に立つことは、我々、音楽人にとって何よりの喜びです」と語っていた。
中国など諸外国のアーティストとの交流もライフワークにしており、
「生きる」には、自身が亡くなる前年まで出演。
最後まで心に愛をたたえた音楽家だった。【伊藤遥】 ・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
秋麗(あきうらら)の昼下がりの後、谷村新司さんの『残照』の歌を私は心の中で唄い・・。
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私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の昼下がりのひととき、川沿いの遊歩道を散策しょう、と自宅を出た。
朝夕は肌寒く感じられるが、昼下りの秋の陽射しはまばゆく、
秋麗(あきうらら)のひとときとなっていた。
ハナミズキのたわわな葉も早くも朱紅色に染め、陽射しを受け、
秋の深まりを感じたりした。
住宅街を通り抜けようとしていた時、知人宅の若き奥様がベビー・カーに乳児の乗せ、
昼下りの散策を愉しまれ、こちらに向かってきた。
私は若き奥様は、高校生の頃から幾たびも見かけて挨拶を交わしてきたので、
私は微笑みながら、
『赤ちゃんも・・心地よさそうに眠っていますね・・』
と言ったりした。
『私も陽だまりのような中・・心地良いですわ・・』
と若き奥様は微笑みながら私に言った。
この後、私は若き奥様を見送った後、遊歩道沿いにあるベンチに腰掛けて、
煙草を喫ったりした。
私は年金生活の身なので、こうした秋の陽射しに恵まれ、
昼下がりのひとときを散策できるのは、何よりも贅沢の時と思っている。
そして秋の陽射しは夕刻に近づくと、つるべ落としのように暮れ、
人生のたそがれを感じたりし、何か過ぎゆく時の愛惜感を受けたりする、
と思ったりした・・。
このような秋の夕暮れに思いを馳せると、
突然、ひとつの歌が浮び、私は心の中で唄った・・。
♪足早に暮れてゆく 秋の夕陽のいさぎよさ
久しぶりに散歩する父と二人での遠まわり
【『残照』 作詞・作曲 谷村新司、 編曲・青木 望、 唄・谷村新司 】
私は1944〈昭和19〉年に農家の三男坊として、長兄、次兄に続いて生を受けた。
何か父たちは三番目の子は、女の子を期待されていたような感じで、
私は幼年期ながら、何となく感じて受けたりしていた。
その後、妹が誕生し、祖父、父が溺愛するように私は感じてしまい、
私は身勝手にいじけたようふるまいをして、幾たびか叱咤されたりしていた。
そして私が小学2年の三学期が終了する前、父は病死された。
私の幼年期を思い馳せても、父親に甘えたりした記憶がないが、
その後に歳月を重ねる時、父恋し、心の片隅にある。
私たち夫婦は子供も恵まれなかったので、もとより私は父親になったこともないが、
若き父親と男の子を見かけたりすると、いいよねぇ、と思ったりして過ごすこともある。
この谷村新司さんの『残照』の歌は、父と子、そして人生の愛惜感があり、
私が好きな曲のひとつである。
この曲を知ったのは、1980(昭和55)年に谷村新司さんが、
アルバム『昴(すばる)』のタイトルでアルバムを創られて、8曲の中のひとつの曲である。
私は『昴(すばる)』のアルバムを買い求めて盛んに聴いたりしたが、
最後に収録された『昴』の名曲よりも、
この中のアルバムに収録された『残照』、『玄冬記~花散る日~』の方が私は好みであった。
♪”人生は祭りのよう”何気なく貴方は言った
その後の淋しさにたえる勇気が出来ました
【『残照』 作詞・作曲 谷村新司、 編曲・青木 望、 唄・谷村新司 】
この歌詞にあるように、私なりに幾重にも思いを重ねながら、
私は心の中で唄ったりした・・。
この歌を谷村新司さんは創られたのは、1980年(昭和55年)の少し前と思われ、
30歳前後であるので、よくぞ人生の過程を的確に表現された作品、と改めて思い深めたりした。